水の国 (1)
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文吉は田植機でやるところを全て終わらせると、植え直しは他の者に任せて、ジーノを軽トラ
の助手席に乗せ、穂高神社へ向かった。
穂高神社北神苑の一隅には、巨大な花崗岩の自然石で作った水舟があり、水口から吐き出され
た水が、中央に掘り込まれた窪みに一旦溜まってから、岩肌を伝って周囲にこぼれ落ちていた。
その大岩を囲む様にして四方には榊(さかき)が立てられ、榊の間に注連縄(しめなわ)がめぐ
らされ、白い紙の切り下げが何枚も垂れている。
「『お水迎え』の神事は、ついこの間済んでしまったが、まだ『水祭り』の期間中だから、こ
の水を汲んで帰って、あちこちに注げばご利益があるんだよ」
文吉はそう言って、持って来た竹筒二本を、その水で満たした。
「秋に上高地の明神池に返した水が、今ここに戻って来てくれたわけですねえ」
「うん、だからこの注連縄が張られている間は、この水場は特に神聖な場所になっているんだ」
「飲んでもご利益があるんですか?」
「飲むのが一番ご利益がある」
ジーノは渡された柄杓(ひしゃく)に水を受けて飲んだ。
文吉も飲んだ。
「残念だなあ、お水迎えの神事が終わってしまったのは・・・」
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「だけど確か晃が、写真は撮りに来たはずだよ」
「おーっ、そうですか、安心しまーした」
軽トラの二人が戻って来た時には、田植えはすっかり済んで、皆は後始末をしていた。
文吉は晃に声を掛けると竹筒の水を神棚、鉄瓶、水舟、田んぼの水口、ワサビ畑へと少しずつ
注いで回り、銘々にも少しずつ飲ませ、晃はその様子を撮影した。
「今日はアルプス側に雲が掛かっていないから、間もなく『水の国』が見られるけど、長峰山
に行ってみないか?」
文吉とワサビ畑から戻って来た晃が皆を誘った。
「ずっと前に教えていただいた水景色ですね。是非連れて行ってくださーい」
直ぐにジーノがのった。
「長峰山から眺める『水の国』か・・・ハル、俺たちも行ってみるか?」
結局全員が行くことになり、晃の車と文吉の軽トラが連なって出掛けた。
晃たちの車と行き違いに入って来た白いバンが土蔵の裏に停まり、二人の男が降りた。
二人は玄関前にやって来ると、運転してきた方の、五十がらみで灰色のブレザーを着た布袋腹
(ほていばら)の男が引き戸を開け、中に声を掛けた。
「こんにちはっ、泉さんっ、おらんかねえっ・・・なんだ、やはりさっきすれ違った車がそう
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だったか・・・鍵も掛かっていないところをみると、ちょっとその辺まで出掛けただけかも知れ
ませんね。泉さんっ、こんにちはっ・・・うん、間違いなく留守のようだ。どうします、しばら
く待ってみますか?」
「丁度そこに気の利いた場所もありますから、そこで一休みしながら待たせていただきましょ
うかね」
助手席に乗っていた、麻の生成りのスーツを着た男が言った。布袋腹の男より少し年かさの五
十代後半くらいだろうか、白髪混じりの豊かな長髪、背筋の通った上品な男だ。
二人はひとまず右手の縁側に腰掛けたが、布袋腹の男は直ぐに立って水舟に行き、幾つか伏せ
て置かれているグラスの二個を取り、水口の水を汲んで持ってくると、
「旨い水だから、お茶代わりにいただきましょう」
と言って二人の間に置き、改めて座った。
「本当に美味しい水ですね・・・縁側に水舟ですか・・・秋山さん、この家には手こずるかも
知れませんね」
スーツの男がその水を、いかにも美味そうに味わってから言った。
「時代遅れの頑固者ですからね、ここの夫婦は」
「時代遅れですか・・・一番進んでいるのかも知れませんよ。いずれにしても直接会って、ど
んなご夫婦なのか、そろそろ知っておこうと思ったんですが・・・」
二人に驚き逃げて行った鶏が数羽戻ってきて、池の向こうの地面をつつき始め、池の中央に横
たわっている流木の上には、常連のセグロセキレイもやって来た。
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「ところで、さっきお話した甥の件ですが・・・」
「東京の住まいを引き払ったというのは、間違いないんですね」
「ついこの間までは誰に聞いても、戻る気は無いはずだっていう話しでしたから、寝耳に水で、
お電話差し上げたんですよ。しかも、もう隣りで暮らし始めていますから間違いないですね。ワ
サビ組合の方にも探りを入れてみたんですが、ワサビの方も再開するからと、挨拶に来たそうで
す。両親が亡くなって、一人息子も東京に根を下ろしたし、母屋も土蔵も解体済み。それから、
こっちの夫婦は高齢で跡取りが無い・・・どちらも、またとない好条件だったのが、急に思いが
けない展開で困りましたねえ」
「本当に予想外の展開です。予定地の核心部から、早々に色を塗り変えられるかも知れないと、
つい私も甘い期待を抱いていました」