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早苗の蕎麦 (3)

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 二玉目が延し台に載り、早苗が再び延し始めると、マウンテンバイクに乗った光が帰ってきた。
 光はマウンテンバイクを止めると、テーブルの向かい側の人垣に頭を割り込ませた。
 「よおっ、おねえちゃん」
 「よおっ、光」
 互いに一声掛け合ったものの、それまでの姉には感じたことの無い何かを感じ取った光は、一
瞬目を合わせただけで、後は黙って見物に回った。
 早苗も一言も喋らずに作業に集中した。
 早苗が二玉目も切り終わり、全て生舟に納めてしまうと初めて光が口を開いた。
 「お姉ちゃんすごいね。あのスーパーばあちゃんに似ていたよ」
 「そんなはずないよ。百年早いって言われちゃうよ」
 自分など市村の足元にも及ばないのは良く分かっていても、蕎麦を打つ時はいつも市村をイメ
ージしてやっているだけに、早苗はとても嬉しかった。
 「早苗、われは(お前は)大したもんだ・・・たった一ヶ月でこんなになるんだから、やっぱ
り自分で行かせてくれって言うわけだ」
 文吉が感無量の顔で言った。
 「こんなに上手に教えていただいて、本当にありがとうございました。なんて言ってお礼を言
ったらいいか分かりません」 ハルが近藤に頭を下げた。


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 「いえ、さっちゃんが、こんなに早く上達したのは、市村さんの教え方が上手いのと、彼女の
人並み外れた素質ですよ、根性もあるし。僕なんか逆に発奮させられてる側ですから」
 自分の娘のあまりに急激な成長に感動して、晃も恵子も、涙がこぼれるのを堪えるので精一杯
で、近藤へのお礼の言葉も、早苗への賞賛の言葉も、なかなか見付けられずに困っていた。
 「さっちゃん、大したもんですねえ。東京でお宅にお邪魔した時とは別の人みたいに大人っぽ
くなって、とても素敵でーした。女職人さんですねえ」
 ジーノが感動で目をクリクリさせて賞賛した。
 「こういう習い事には俺も自信はあったが、上には上がいるもんだ。あーあ、俺のここでの蕎
麦打ち名人も三日天下で終わりか・・・せっかく道具一式揃えたのに」
 近藤と顔を見合わせて、五郎がぼやいた。

 水舟の三番槽は水が払われ、そこに置かれた大ボールと、カマドにのせた大鍋との間に早苗と
近藤が立ち、蕎麦を一人前ずつ茹でてはシメた。早苗がさらしてシメる頃合いを見計らって、近
藤が次の蕎麦を投入するといったコンビネーションプレーで茹でるので、ザルに盛られた蕎麦が
次々とテーブルに運ばれた。
 「おねえちゃんっ、やっぱり美味しいよっ。スーパーばあちゃんのおそばと同じ味だよっ」
 「美味いっ、いい食感してるなあ。すすって良し、噛んで良し、快感だね。この調子で修行し
たら、間違い無くいい職人になるぞ」 辰彦が目を見張った。
 「本当に美味しいですねえ。麺が細いのにシャキシャキしてますねえ。日本に来てから、何度


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も蕎麦を食べまーしたが、今までで一番美味しい蕎麦ですねえ」
 「早苗っ、美味しいよ。鶴屋さんで食べた蕎麦にそっくりだ。文さ、良かったねえ、もうじき
こっちでも、この蕎麦が食べられそうだねえ」
 「そうだな、一年なんて言わずに半年くらいで戻ってきて、早く店始めてほしいもんだな」
 「駄目だよ西オジ。素質があるって分かったんだから、なおのこと、しっかり修行させてあげ
なくちゃ。目先に満足しないで志を高く持つだけの価値が、さっちゃんにはある。保障するよ」
 ニヤリと微笑んだ辰彦が、きっぱりと言った。
 「そうか、ま、そう言われりゃそうだな・・・淋しいが、もう少し我慢しなきゃいけないか」
 「それに、蕎麦打ちがちょっと器用に出来たからって、そんなの、蕎麦屋を構成している色々
な仕事や知識や知恵の中では、ほんの一部分だもの。まだ覚えたり経験しなきゃならないことが
山ほどあるわ。一年間じゃ足りないくらいよ」 早苗が言った。
 「早苗、鶴屋さんのご厄介になれて本当に良かったね・・・蕎麦打ちを覚えたのも大収穫だけ
ど、それ以上に身に付いたものが、いっぱいあったみたい」
 言った恵子の目から涙がこぼれた。
 晃は早苗が窮地から脱したのを確信した。その上、すでに逞しく成長し始めた我が子の様子と、
彼女の打ってくれた美味い蕎麦の味わいまでが重なり、堪えていた涙が溢れてしまった。晃は慌
てて一同に背を向けると、
 「カメラを取ってくるよ」 
 と言ってその場を離れ、土蔵の裏に停めた車に向かった。
 「時々、市村さんに電話して様子を聞いていたから、上達が早いのは知っていたけど、これ程


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とは思わなかったなあ。西オバ、生きてる内に食べさせてもらえて良かったな」 五郎が言った。
 「わたしゃ、また張り合いが出来ちゃって困ったねえ。皆んなにゃ悪いが当分長生きをさせて
もらうからね」
 「西オバ、そんなに長生きして人間越えるか?夜な夜な現れる『そば婆さ』そばをくれー・・・
そばをくれー・・・そうだ、折角だから『そば婆さ』の頭に一文字足そう、『く』を足そう」
 ドスッ。 ハルの当身が五郎の腹に食い込んだ。
 車のカメラバックからカメラを取って来た晃は、大笑いしている一同を、離れた位置からズー
ムレンズで引き寄せ、素早く何枚か撮影した。

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