早苗の蕎麦 (1)
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五月十二日、午前十時少し前、大王わさび農場に隣接する水車小屋の下流。
水車小屋のある蓼川(たてかわ)の清流が、土手一つ隔てて流れる万水川(よろずいがわ)に
合流する辺り、それらの川を左手に眺めながら、右岸の堤防上を早苗と近藤が散歩していた。
右手には広大なわさび農場が広がり、瑞々しい緑の幾何学模様の間に、湧き出したばかりの清
冽な水が、さらさらと流れている。
頭上を覆った木々の葉には、まだ新緑の柔らかさが幾分残っていた。
川辺のあちこちに立つ柳の巨木が、タンポポの綿毛のような柳絮(りゅうじょ)を盛んに散ら
し、それが穏やかな楽譜にちりばめられた音符のように、木漏れ日の間をゆったりと浮遊して、
あるものはワサビ畑の清水に、あるものは川面にと舞い降りている。
「送ってあげたお陰で、丁度いいものに出会えて良かったよ」
「私も知っていたわけじゃないけど、来てみて良かった・・・この綿毛の呼び方、以前教わっ
たことはあるんだけど・・・確か柳の綿毛だから柳という字と後一文字でリュウなんとかってい
ったはず、また父に聞いておくわね」
「ああ、後で教えてくれよ・・・写真撮ってあげるからそこに立ってくれる」
近藤が肩から下げていたデジタル一眼レフカメラを手にした。
「嬉しいな、どこがいい?」
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「後に川と水車小屋を入れたいから、そこに立ってくれるかな」
「その前に私にカメラ貸して。この条件だと日中シンクロで撮った方が無難だから、ストロボ
を弱めに発光するようにセットしてあげる」
「・・・そうか、さっちゃんのお父さんはプロのカメラマンだったよね」
近藤がカメラを渡した。
「私にとってカメラはおもちゃの一つだったから」
「そうだっ!、俺にカメラの使い方、コーチしてくれないか?・・・と言っても、持っている
レンズは本体とセットで買った、そのズームレンズだけだけどね」
「このズームレンズは守備範囲の広いレンズだから、当分はこれ一本で充分じゃないかしら。
私なんかで良かったら、いくらでも。良かった、私にも役に立てることがあって」
「よーし、このチャンスに一気に腕を上げてやるぞ」
「はい、後はお好みの画角にしてシャッター切るだけでOKよ」
カメラを返すと、早苗は言われたところに立ったが、手ぶらなのでポーズの取り方に迷い、照
れ隠しも兼ねて、舞い落ちてくる柳絮を手の平で受け止めたり、舞い上がらせたりした。
ファインダーの中の少女に特別な感情の芽生えを覚えつつ、近藤はシャッターを切った。
「綿毛も写っているといいんだけどな・・・」
「貸して、コンちゃんも撮ってあげるから」
「俺は撮らなくていいよ」
「駄目駄目」
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早苗は強引にカメラを奪うと、近藤にポーズをつけさせた。
「でも、腰に手を当てるのってオジサンみたい」
「もー、無理矢理させて、そうくるかい」
「あら、コンちゃんて、こうして改めて見ると、けっこうイケメンなんだなあ」
「こらっ、気付くのが遅すぎるぞ」
早苗の無頓着な表情に近藤は少しめげた。
早苗の髪に柳絮が止まった。
近藤が取ってやると、早苗はニコリと笑って水車小屋の方へ下りて行った。
近藤はそこに留まり、漂う柳絮の向こうに、早苗の入った風景を眺めていた。
振り向いた早苗が手を振った。