ジーノのアイディア (3)
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「ああ、そんなこともあったよね・・・」
「食べ物の背景とか風景というのは、その食材や料理の持つ歴史とか、その土地の風・・・何
んと言いましたでしょうか、風・・・」
「風土かい?」
「そう、その風土とか、それから関わった人とかいったものでしたよね。もちろんイタリア人
にもそういう感覚はありますですが、日本人ほどではないです。この『美味しい』という言葉と
文字の中に、これからの日本の食の未来が見えますね。食だけでなく人間関係とか、自然との関
係といった、大切な関係のあるべき未来が見えます。地球の未来も見えますですね」
「ちょっと大袈裟過ぎやしないかい」
「いえいえ、この美味しいという言葉は素晴らしい言葉です。私が日本に来て一番好きになっ
た言葉です。現代人が迷い込んでしまった迷路からの、脱出の道標です。そこで今回のシリーズ
の名称を『美味風景』と決めまーした」
「ほう、美味風景か・・・まあまあだね」
「何がまあまあですか。そのタイトルも晃さんに教わった言葉ですよ、初めてこちらにお邪魔
した時に。忘れちゃ困りますねえ」
「・・・そんなことあったかなあ」
「まあいいですよ。話しを戻しますですが、その美味風景のシリーズでやりたいのは、日本中
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にある美しい味を探して、その食材や料理の持つ美しい風景を、味と一緒に紹介することです・・・
その風景は、ある時は物語かも知れません。ある時は豊かな森や川かも知れません。ある時は味
のある人物かも知れません。そこに旬とか季節感も盛り込んで、晃さんの写真と、私の文章で紹
介してゆくという企画ですね」
「この本でやるのかい?」
「はい、この『ダイバーシィティ』です。第一回がワサービでしたから、次は水でやりたいと
思います。きっと水というテーマからは、色々な食べ物や風景や物語がこぼれてくるはずです」
「水がテーマか・・・そのシリーズのダイジェスト予告みたいになっちゃうかも知れないね」
「はい、そこが狙いでーす。それに、こちらにお邪魔して、水の取材はずいぶん進んでしまい
ましたから。時には畑違いもやるかも知れませんが、出来ればシリーズを通して、水に関わるも
のを多くしたいと思います。何故なら、これも晃さんに教わったことですが、日本は水文化の国、
水の国だからです。それを油文化の人間の目で紹介するところに、面白いものが生まれる可能性
があると思っています・・・これが一つ目の相談で、実はもう一つ相談があるんです」
「・・・・・・」
「それは、いまの企画と少し重なりますが、晃さんの写真とデータ、それから私の文章で、安
曇野紀行と歳時記を併せたような本を共著で作りませんか、という相談です。地元を知り尽くし
た写真家でナチュラリストと一緒に、安曇野の歳時記を歩くイタリア男の、出会いや発見や感動
の物語です。ですから、歳時記として見たい人には歳時記としても見れる、でも、安曇野の歳時
記にはこんなに美しい風景と、美味しい体験と、ワクワクドキドキの楽しいドラマがあるんだよ、
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というのを作ってみたいんです。この本は観光ガイドブックとしても、カタログ的なガイドブッ
クとは違う魅力を、きっと発揮すると思いますです」
「・・・どうして安曇野を選んだのかな?」
「選んだ理由は、第一に私が好きになった土地だからです。次に安曇野がダイバーシィティに、
多様性に富んでいるからです。土地は盆地、扇状地、渓谷、険しい山岳と様々で、低地と高地の
標高差が二千数百メートルもある山国なのに、平野も広い。それに動植物の種類の多様性も全国
でトップクラスの豊かさですね。田舎なのに美術館やギャラリーといった美術関連施設が驚くほ
ど多くて、アーティストも大勢住んでいる。山国なのに開拓したのが南方の海洋民族。全国で指
折りの晴天率なのに水に恵まれている。今の私から見て、こんなに多様性に富んでいる土地は他
にありません。自然でも社会でも、多様性は健康の基本ですからね・・・その上、今の理由を越
える動機になっているのが、そこに晃さんと、その家族や仲間たちが住んでいるからです」
「その本もCFC出版から出すのかい?」
「そのつもりですが、ただ、この企画は、さっきの企画のように正式に通ったものではありま
せん。私は日本とイタリアの両方で出版出来るように努力しますが、結果はやってみないと分か
らないです」
「ぽしゃる可能性もある、ということだね?」
「そういうことです・・・この二つ目の企画を晃さんが引き受けてくれた場合は、私は当分、
安曇野に家を借りて暮らすつもりです。他の仕事もここでやって、東京には時々戻るという生活
に切り替えるつもりです。いかがでしょうか晃さん、どうか良いご返事をください・・・」
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「・・・先に聞いた企画は願っても無い仕事で、是非やらせてほしい・・・後の企画も魅力的
だけど、ジーノはこっちに住んで、先の企画をやっていけるのかい?編集部の方でも困るんじゃ
ないのかなあ?」
「この本が創刊された目的の大きな一つが、あの会社のダイバーシィティ開発ですから、成果さ
え出してくれるなら、方法の違いは大歓迎なんでーす。人種、性別、年齢、経歴、価値観など、
出来るだけ混ぜて、そのメリットとデメリットを確かめるのが目的なんですね。自分たちの成功
も失敗も試行錯誤も、データや記事にしますから・・・ただし、成果を出せなければスタッフの
組み換え、最悪は解散です。編集長以外のスタッフは全員が、その条件を承知で集まった天然ば
かりですよ」
「・・・もう一つ聞きたいのは、二つ目の企画は俺の作るスケジュールに合わせて行動するこ
とになるけどいいのかい。それも頻繁に予定変更ありで。理由は俺の選ぶ被写体や体験のほとん
どは、先方の都合に自分が合わせるものばかりだからね。こちらの都合で、いつの何時に撮りま
しょう、とはいかないものばかりだけど?」
「もちろんでーす。その一瞬にこだわって歩くのに臨場させてもらうから、他の紀行物とは違
う飛び切りの風景と、ワクワクドキドキのドラマを盛り込めるんだと思っていますです。むしろ
先の企画も、そうやって一瞬を大切に狙っていただいた方がありがたいですねえ」
「・・・分かった。一緒に良いものを作ろう」
晃が差し出した右手をジーノが握った。
「ありがとうございまーす・・・これで私も安曇野に住むことが出来ますです」
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「こちらこそ、ありがとう。ところで・・・あなた、ほんとに神様の回し者じゃないよね?」
「それは私の方が聞きたいくらいでーす・・・ところで今度は、いつ岩魚釣りに行くんですか?」
「ジーノ・・・まさかこの企画、そのために立てたんじゃ・・・」
「とんでもないでーすっ、それは誤解でーすっ・・・でも、岩魚釣りには行きましょうね」
「・・・・・」
「晃さん、田植えの準備に行きましょう。私もお手伝いしまーすから」
ジーノも加わり、田植えの準備は明るい内に終わった。
夕暮れとともに高まるカエルの合唱の中を、辰彦と五郎が出掛けて来た。
西のおえの間で、久し振りに賑やかな酒宴が開かれた。
この夜は五郎の採ってきた山ウド、ウドブキ、コシアブラ、ネマガリタケなどの山菜料理と、
辰彦の出張握り鮨で大いに盛り上がり、早苗が休みで帰って来る明後日昼の、蕎麦会を約束して
解散した。