ジーノのアイディア (1)
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五月六日、安曇野。
水を張った水田に入り、晃は文吉と代掻(しろか)きをやっていた。そろそろ十時のお茶に戻
ろうか、などと話し合っていると晃の携帯が鳴った。発信者はジーノだった。
「やあっ、久し振り・・・ああ、元気だよ。そっちは上手くいってるかい?・・・そう、それ
は何より。で、今日は何か用事?・・・うん・・・うん・・・へー、それは良かった・・・うん・・・
うん、嬉しいねえ。まだ営業している時間は無いし、目下無収入だからね・・・うん・・・分か
った。で、いつ来る?・・・十一日・・・田植えの前日か・・・十二日は田植えであわただしい
から、大したおもてなしも出来ないけど、それでもいいかい?・・・うん、ちょっと待って」
「西オジ。ジーノが十一日から三日ばかり来たいって言うんだけど、泊めてもらえるかなあ?」
「お、ジーノさんだったか、いいどころじゃない(もちろんいいさ)」
「もしもし、お待たせ。じゃあ十一日でいいけど、何時ごろになる?・・・分かった、じゃあ
乗る列車が決まったら、また電話くれよ・・・うん、じゃね」
「十一日の午後来るんで、また迷惑掛けるけどよろしく頼むね・・・なんでも俺に仕事を頼み
たいって言うんだけど」
「そりゃ良かったじゃないか・・・この間のワサビの仕事、評判良かったのかな?」
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「そうみたい・・・あれが好評で同じようなのをシリーズでやりたいみたいだ」
「忙しくなるな・・・おい、ぼちぼちお茶に行くか」
「うん、お茶にしよう」
同じ頃、鶴屋の厨房。
市村と近藤が、早苗に『もり汁(蕎麦つゆ)』の仕込みを教えていた。
沸騰しかけた寸胴の湯から昆布が取り出され、代わって削り節が入れられて、タイマーがセッ
トされた。
「このタイマーが鳴ったら、後は布巾で漉(こ)せば『出し取り』は終わりだ。じゃ、今のう
ちに『かえし』を計量しておくよ。『かえし』っていうのは『もり汁』の素だな・・・言い換える
と、蕎麦屋の味の要だよ。醤油をベースにして味りんや糖類を加えるんだが、一口に醤油と言っ
ても種類は山ほどあって、それぞれに味や色や香りが全く違う。味りんと糖類も同様だから、こ
の加えるものの種類や分量で、まったく個性の違う味になってしまうんだ。さらに、醤油を生(な
ま)で仕込むか火を入れて仕込むか、というのも店によって違う。生で仕込むのを『生がえし』、
火を入れて仕込むのを『本(ほん)がえし』って呼ぶ。ちなみに鶴屋のかえしは『生がえし』だ」
「火を入れない方ですね?」
「そう。この『かえし』の材料と、仕込み方の組み合わせは工夫次第で無限に考えられる。味
の要だけに、今仕込んでいる『もり汁』の仕込み方と合わせて、どこの蕎麦屋でもこの製法は秘
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中の秘なんだよ」
と言って近藤は、大きなカメに寝かせてあった『かえし』を汲み取り、別の寸胴に入れた。
「でも、美味しい蕎麦つゆの仕込みを知ったとしても、自分の打つ蕎麦とマッチしていなけれ
ば無意味ですからね。シンプルな食物だけに、蕎麦は打つ人や粉の種類でまったく違う食感にな
りますから、自分の蕎麦とマッチさせるための、味覚のセンスを磨くのが大切ですよ。それから
人の味覚は季節によっても微妙に変わりますから、うちでは季節で『もり汁』の材料の分量を微
妙に変えますけど、これも、おいおい覚えてもらいますね」
出し取りタイマーが鳴った。
「よし、出しを漉すぞ。次回はさっちゃんにやってもらうから、良く見ているんだよ」
近藤は流しの中に置いた寸胴に柄付のストレーナーを載せ、布巾をセットすると、出しをあけ
て漉した。
漉した出しは、先に火に掛けておいた『かえし』の寸胴に計量して加えられた。
「さてこれで、さざ波まで行けば完成だが、仕上げに加えるものが二つと、欠かせない作業が
一つある。この仕上げの材料と一仕事で、『もり汁』の味わいが一段と深いものになるんだ。この
仕上げ方は、市村さんが何十年間の試行錯誤から完成させた大切なものだから、これから教える
けど、絶対に他へ漏らしちゃ駄目だよ」
近藤は真顔で言うと、秘密の製法を教えた。
「今日の夕方には『かえし』の仕込みもお教えしますよ。蕎麦も打てるようになったし、後は
自分で稽古を重ねるだけですね。そうだ、今度の休みにお家へ帰ったら、佐野さんの道具を借り
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て、皆さんに蕎麦を打ってあげたらどうですか。蕎麦粉ともり汁は分けてあげますから」
「はい、ありがとうございます。五郎さんにお願いしてみます」
「この一ヶ月間、休みも返上で、よく頑張りましたねえ。これからは週に一度の休みは取って
くださいね。美味しい蕎麦を打つためには心身の健康が第一ですから、休養したり遊びに行った
りして気分転換するのも大切ですよ・・・さっちゃんがあんまり頑張るから、コンちゃんまで再
燃焼して、良かったですね先輩」
「さっちゃんの集中力には、いやほんとに驚きました。最初は軽くシゴイテヤルくらいのつも
りで始めたのに、今じゃ煽(あお)られちゃって、立場が逆ですよ」
「さっちゃん、一年間の予定で引き受けましたが、この調子なら少し早めに卒業出来るかも知
れませんね。どうしますか、予定変えておきますか?」
「いえっ、出来れば予定通り一年間おいていただきたいです。お願いしますっ」
「・・・そうですね、一気に上達しただけに、むしろ心配なところもあるし。コンちゃんみた
いに不器用で、ゆっくりゆっくり身に付けていれば、かえって安心なんですけどね」
「市村さん、あんまりじゃないですか」 苦笑いの近藤が口を尖らせた。
「コンちゃん、褒めているんですよ。不器用でも諦めずに続ける人は、時間は掛かるかも知れ
ませんが、一旦身に付けばブレないんですよ。逆に器用な人は覚えるのは早いですが、ある程度
出来る様になると斑(むら)っ気が出て、進歩が止まってしまうことが良くあるんです。職人は
不器用なほうが大成するって言われているくらいですからね」
「なんだか傷付いたけど・・・ま、褒められたことにしておきましょうか」
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三人の笑いが、仕込んだばかりの『もり汁』の香りとともに調理場を満たした。
開店に向けて炊き上げていた『そば釜』の湯が沸騰し、木蓋の下から勢い良く蒸気を吐き出し
た。
「さっちゃん、ぼちぼちノレン掛けとくれ」
ホールから小林のおばちゃんが声を掛けた。
「はーいっ、ノレン掛けまーすっ」
「ノレン掛けたら、お茶の点検もお願いね」
入れ違いに調理場に入って来た古田のおばちゃんが、背中から声を掛けた。
「はーいっ、分かりましたーっ」
ノレンを掴んで戸をカラリッと開けると、外に五人連れの客が立っていた。
「あっ、いらっしゃいませ。ちょっとお待ちくださいね」
店内を振り返った早苗は、
「お客様五名様でーすっ」
と、声を掛けると客を招き入れ、紺地に白く鶴屋と染め抜いたノレンを掛けた。