桜 (3)
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「そうですか、そんなことがあったんですか。それでは気楽にお花見気分になんか、なれませ
んよね・・・でもさっちゃん、考え方によっては、これからさっちゃんが生涯で出会う桜に、味
わいを貰ったと考えることも出来ますね。冷酷なおばあさんだって思われるかも知れませんが、
私ならそう考えますね。私みたいに長い間生きて来ると、それは一言では語れない色々な出来事
を体験しますから、嬉しいことも悲しいことも苦しいことも、色んなことが整理が付かないくら
い重なってしまうんですね。だから桜を見ても、いい思い出が蘇ることもあれば、悲しいことが
蘇ることもある。一度お花見をする間に、色々な思いが去来するんですね。でも、それが味わい
なんですよ」
「きれいな桜を見ている時に、悲しいことや苦しいことを思い出しても、桜を楽しむことが出
来るようになれるんでしょうか?」
「きっとなれると思いますよ。特に桜は、そういう観賞の仕方をされる宿命の花なんじゃない
でしょうかね。むしろ、だからこそ皆さん、桜には惹かれるんじゃないかな」
「・・・・・」
「太平洋戦争で家族の誰かを失ったという家は国中にありましたけど、残されたご家族なんか、
桜を見たら、それこそ悲しい思い出が蘇ってしまいますよね。でも、ほとんどの皆さんは、それ
も含めて桜を精一杯味わっている人が多かったと思いますね」
「私ってまだ、色々な経験が少ないから、脆(もろ)いんですね」
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「・・・一昨年の同じ頃、桜が見たくて、ここの参道を登って来た時のことですけれど、店の
常連さんで、よくご夫婦でみえていただく方とすれ違ったんですよ。何時も仲良くお二人でみえ
ていただいていましたけれど、その時はご主人一人だったので、『奥様はご一緒じゃないんです
か?』って伺いましたら、『家内を一週間ほど前に亡くしましたから、一人だけです』っておっし
ゃるじゃないですか。まだ五十歳くらいなのにお気の毒に。で、『よく、お一人で出掛けて来る気
持ちになれましたね?』って伺うと、『ここの桜は毎年一緒に見に来ていたものですから、今日は
しっかりと目に焼き付けて帰って、家内に報告するんですよ』って言われて・・・こうして大勢
の方達がウキウキと行き交っていますけれど、皆さんそれぞれが、色々な想いと連れ立って来て
いるんだなあって思いますねえ」
「・・・・・・」
「明日からの開花情報の取材は止めにしますか?辛かったら止めてもいいですが、さっちゃん
のためには、無理をしても続けた方がいいと思うんですけどね」
「・・・続けます。続けていれば、私も変われるかも知れませんから」
「そうですか。それから、こんな話しも参考になるかも知れませんね・・・北信濃の山ノ内町
の山間部に夜間瀬という所があるんですが、そこでの話しです。あちらでは、つい最近まで冠婚
葬祭は家でしていたんですが、その時、必ず出す料理の一つが蕎麦なんです。その蕎麦は女性が
打つのが普通で、あちらの女性は誰でも蕎麦が打てたんですね。だから嫁いで来たばかりのお嫁
さんが、真っ先にお姑さんから教わるのが蕎麦の打ち方。何が言いたいかって言いますと、お目
出度い時に蕎麦を打つのはいいとして、大切な家族が亡くなった時にも、蕎麦を打たないといけ
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ないってことです。以前、あちらの農家で蕎麦をご馳走になった時、そこの奥さんが『この辺り
の女は、親が死んでも泣いてられないんだよ。女は涙流しながらでも、蕎麦打たにゃならんのさ
ね』って教えてくれましたけど、じゃあ、夜間瀬の女性達は蕎麦が嫌いかっていうと、皆さん大
好きなんですね。感動しました。それを聞いて私の蕎麦に対する味わいも、深まった思いがしま
したね」
「・・・今のお話を伺って、私も益々蕎麦が好きになりました・・・桜のこともきっと・・・」
「コンちゃん、まだ戻って来ませんねえ。どうですか、私たちも境内に行ってみませんか?中
から山門を額縁にして、絵画の様に眺める花の滝も、いいものですよ」
山門の右手前、シダレザクラの花すだれに隠れる様に六地蔵が並んでいた。早苗と市村はその
六地蔵に手を合わせてから、山門をくぐった。
十四日の昼のひと時を、二軒の泉家では花見で息抜きもしたが、翌日には早朝から夕暮れ近く
までかかって、合同での味噌と醤油の仕込みをやり、ワラでくくった味噌玉を西の土蔵の二階に
鈴なりに吊るした。
味噌と醤油の仕込み中にノリサが、牧の山際でのヒメギフチョウの発生を知らせてくれた。
翌日、駆けつけた晃は、可憐なカタクリの群落で吸蜜する、貴重な春の妖精を何頭か撮影した。
光には友達も増え、仲間と一緒に毎日どこかを飛び回っている。
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平野の低地部を染めていた桜は、いつの間にか山麓へと場所を移し、さらに、あちこちの低山
の頂や谷の奥深くへと咲き昇って行った。
北アルプスの雪形とともに、四季時計の一つとして知られた光城山の昇竜桜も、すっかり咲き
昇って最上部を染め、やがてその彩りも褪せると、安曇野は水の季節を迎えていた。