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桜 (2)

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 四月十二日。
 安曇野、千曲市、ともに前日から降り続く冷たい雨の朝を迎えたが、その雨も明るくなるのに
つれて、次第に霧雨に変わった。
 晃は早朝から松本城北側の堀端にいた。北の堀を数百メートルに渡って縁取った、満開の桜を
撮影していると、予報通りに雨が上がり始めた。西に引いて行く霧雨に東の雲の切れ間から差し
込んだ鋭い朝日が虹を掛けた。千載一遇のシャッターチャンスに、虹と桜の群れを一つのフレー
ムに入れて何度もシャッターを切る。
 よし、ここまで、と見切りをつけ、次は城と虹を合わせるべく東の堀端へと移動したが、虹は
待っていなかった。が、代わって堀端の瑞々しい柳の新緑が朝の光に鮮やかに浮き立ち、満開の
桜や城と重なってくれた。
 霧雨が上がると、やがて澄んだ青空が広がり、大気は五月並の暖かさになった。
 昨日の冷たい雨に足止めされていた各地の桜は一気に開花を進め、松本から安曇野にかけて平
野部の桜の多くが、平年よりやや早めに満開を迎えた。
 北アルプスの残雪はまだ多いものの、犀川や高瀬川や穂高川などの川原や川沿いの柳類は、新
緑を一層鮮やかにして平野を黄緑の帯で染め、その所々を桜の群れが薄紅色に飾っている。
 穂高南小学校を取り囲む桜も満開の初日を迎え、昼休み、校庭の片隅では桜の下に集まった子
供達が、ノリサのハーモニカに耳を傾けたり、合唱したりした。


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 一方、長野地方でも千曲市の龍洞院や大雲寺、長野市の開善寺や天照寺、光林寺や松代城址な
ど各地で、平年よりやや早めに桜が満開となり、いよいよ信州は本格的な桜の季節を迎えた。
 千曲川の柳の新緑も、犀川の新緑に負けず劣らずの鮮やかさで進み、川中島の河川敷の桃園で
は、淡く桃の開花も始まっている。
 「光林寺の桜は、やっぱり格別ですねえ・・・まるで花の滝の間にいるみたいで」
 「僕もここのシダレザクラは好きですねえ。ここは桜が多いだけじゃなくて、桜と寺の建造物
以外に、景色の邪魔をするものが無いから、なんだか別世界にいる様で。昨日は杏の花が一気に
落ちちゃって、さっちゃんもすっかり萎(しお)れていたけど、ここの桜は雨ニモマケズで良か
ったね」
 「あ、はい・・・」
 「なんだ、こんなに素晴らしい桜に囲まれても、まだ杏の後遺症が治らないのかい。ここの桜
だって今はこんなに元気いっぱいだけど、後数日で様変わりする運命なんだよ。これは自然界の
掟なんだし、それが醍醐味なんだから、もっと大らかに楽しまなくちゃ」
 ここは長野市篠ノ井の光林寺。戦国時代の合戦場として知られた川中島古戦場の西方、中尾山
の麓の古刹だ。早苗と市村、そして近藤の三人が、長い上り坂の参道と、さらに勾配のきつい石
段を登って辿り着き、山門の前で一息入れながら、周囲の見事なシダレザクラを愛でていた。
 「・・・きっとさッちゃんは疲れているんですよ。頑張るのはいいですが、さっちゃんみたい


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に一時も気を抜かず、張り詰めたままっていうのも、かえって心配になってしまいますねえ。し
かも今日は平日なのに大忙しでしたから、きっと疲れが出たんでしょう」
 「すいません・・・せっかく連れて来ていただいたのに、茫っとしていて」
 「いいですよ、茫っとするために来たんですから。私も少し疲れたし、コンちゃん、私とさっ
ちゃんはここで一休みしていますから、悪いけど一人で境内の桜を楽しんできてくださいね」
 と言って市村は近藤にウインクした。
 「そうですか、じゃ、僕も自分と桜だけの世界に、ゆっくり浸らせてもらいますね」
 気を利かせた近藤は、一人で大きな山門をくぐって行った。
 「石段の脇に腰掛けましょうかね」
 市村は、ポケットから取り出した風呂敷を広げ、石段に敷いた。
 早苗と市村は尻をくっつけて腰掛けた。
 「どうしました、何か悩み事でもあるんですか。さっきまで元気だったのに、急に静かになっ
てしまって。私でよかったら聞き役くらいにはなりますよ。悩みって、人に聞いてもらうだけで
も、ずいぶん楽になるって言いますから」
 「・・・悩みではないんですが・・・本当のことを言うと、私、桜が苦手なんです」
 「あら、桜が苦手なんて珍しいですねえ?」
 「はい、前は一番好きな花だったのに、去年から苦手な花になってしまって・・・」
 「去年、桜が苦手になる様な事が、何かあったんですか?」
 早苗は洋子とのことを、そして去年の春、洋子が桜の下で亡くなったことを話した。

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