桜 (1)
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四月十一日、午後四時。
朝方から降り出した冷たい雨が止まず、早苗は近藤の運転する車で杏の里に向かった。
「コンちゃん、帰るの遅くなってしまうわね。ごめんなさいね」
「別に用事も無いし、シーズンに一度くらいは俺も杏の里を見ておきたいからね。気にするな
よ・・・それよりなんだか様子がおかしいぞ、ほら」
「あーっ、・・・花があんなになって・・・」
昨日までの四日間、華やかな満開を見せていた杏の木々は雨に打たれ、すっかり落とした花で、
地面にピンクの円を無数に描いていた。
「上の傾斜地はまだ元気で咲いている様だが、民家周りはほぼ終わりだね。残念・・・」
「いくら雨が降ったからって、昨日の満開からは想像もつかない変わり様だわ」
「いつから満開だったかな?」
「七日からだから四日間は満開でした」
「ここのところ暖かい日が続いたし、花が思ったより進んでいたんだね。そこに雨だから一気
に落ちたんだな」
「あんなに元気に咲いているように見えたのに、同じ満開でも、昨日の満開と七日の満開は違
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うものなんですね・・・」
「うん。上の傾斜地のは、同じ満開でも雨に負けてないものな・・・じゃあ降りずにUターン
して、治田公園へ向かってもいいかな?」
「すいません。お願いします」
大ケヤキが気になったが、そのことは口にしなかった。
ベストの状態は短い、か・・・私はまだぜんぜん分かっていないんだ。
早苗はちょっぴり悔しかった。
これからは四季の移ろいを、もっと良く観察してやろうと思った。
そうやって、少しずつ大人になりたいと思った。
治田公園の桜は昨日と同じ五分咲きで、パキッとした花は雨をものともせずに咲いていた。
杏の落花のダメージはそれほどでもなかったが、桜の花は、まだ早苗の胸に重たかった。
「別にさっちゃんが散らしたわけでもなし、元気を出せよ。花が散ってこそ実は生るし、また
来年も咲ける。いい時期が短いから楽しみも大きいんじゃないの」
早苗の沈み込んでいる理由を誤解している近藤は、別れ際そう言い残して帰って行った。
早苗は気を取り直して、杏の花と蕎麦のことを考えた。
いい時が短いから楽しみも大きいか・・・コシの無いそばは不味いけど、何時までもコシの抜
けないそばがあったら不気味だな・・・そうかっ!はかなさだ・・・そばの美味さは杏や桜の花
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の様に、はかないのも美味しさなんだ・・・それを受け入れて、それをどう眺めてもらうのか、
どう味わってもらうのか・・・そば屋って、そういう仕事なのかも知れない・・・それを市村さんは
教えているのかも知れない・・・。
そこまで考えたところで、早苗は自分が冷たい雨に打たれているのに気付き、急いで鶴屋に入
った。
夜になって早苗の携帯が鳴った。
「なあにお母さん・・・ええ・・・ああ、お花見ね・・・うん、ごめん、悪いけど不参加にし
ておいて。十四日の日曜も、市村さんから稽古を見てもらえることになっているから・・・うん、
まだ始まったばかりだし、せめて、一人で稽古出来るようになるまでは、蕎麦打ち以外は考えた
くないの・・・うん・・・うん、分かるけど、ごめんね。来月の十二、十三は、お店が連休にな
るから、その時は必ず帰るから、それまでは集中させて。お願い・・・うん、大丈夫、心配ない
から・・・じゃ、みんなによろしくね」
蕎麦打ちに集中したくて花見を断った早苗だが、花見を避けたのには別の理由もあった。それ
は一年前の春、桜の下で命を絶った洋子のことが、まだ胸の片隅にシコリとなって残っているた
めで、早苗が桜の花見を楽しむためには、もう少し時の流れが必要だった。
東と西の泉家が相談し、早苗と光の参加出来る十四日の日曜日と、日を選んでの誘いだったの
だが。