修業 (13)
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「さあ今度は、さっちゃんの番ですよ。蓋を開けたときの蒸気に気をつけて、油断すると大火
傷をしますからね」
早苗は、今しがた見たばかりの市村のイメージを克明にリピートし、そこに自分がすり替わる
ように蕎麦を放し、三十秒経過で蕎麦をまとめ始めた。跳ね上がった熱湯の飛沫が僅かに手首に
触れ、熱っと思ったが直ぐにイメージに戻れた。四十秒で一気にすくい上げ、ボールの冷水にス
クイザルごとピシャリと浸ける。蕎麦が一瞬フワと浮いたところで、スクイザルの柄をひねって
ザルを回転させ抜き取る。片手で軽く蕎麦を泳がせ、スクイザルに水ごとドッとあけ、水を切っ
て再びボールへ。手早くすすぎ、ザルにあけて水を切る。もう一度ボールに戻して良くすすぎ、
ザルにあけて水を切る。そして盛り付け。
「いいですねえ、素晴らしい再現力を見せてもらいました・・・失敗は一ヶ所だけですね。そ
れは釜の蕎麦をすくい上げた後、念のためもう一度釜の中をすくって、置いてきぼりを探すこと
を忘れましたね。置いてきぼりがあると、次の蕎麦を茹でた時に、ふやけた蕎麦が混ざって困っ
たことになりますよ。とは言っても、大切なポイントはしっかり捉えて出来ていました。じゃあ、
今、茹でたばかりの蕎麦を直ぐに食べてみてください」
早苗は再び試食した。
その蕎麦は、申し分の無い食感をしていた。
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「美味しいですっ」
「そうでしょう。間違いなく美味しく茹でられ、美味しくシメられていましたから。次に勉強
のために私が四十秒で茹でますが、良く見ていてくださいね」
市村は再び沸騰した釜に蕎麦を放したが、その左手には水の入ったグラスが握られている。
「いいですか・・・五十リットルもの湯が勢い良く沸騰していて、釜の下からも大火力のガス
バーナー全開で火を当てているのに、たったグラス一杯の水を入れると・・・ほら、一瞬沸騰が
止まってしまうでしょ・・・十秒くらいで沸騰してきたけど、今のが食感にどう影響するか、比
べてみてください」
と言った市村は、その蕎麦を四十秒で引き上げ、いつもと同じにすすいで盛り付けた。
一口食べて早苗は食感のあまりの違いに愕然とした。
「ぜんぜん違う食感です・・・噛み切った時、芯がクチャッとするような。あのプツンッと切
れる心地よさはまったく感じられません・・・沸騰が止まった十秒で茹で不足になったんですか?
その分、茹で時間を延長すれば美味しくなるんでしょうか?」
「じゃあ、やってみましょう」
市村は再びそばを放った。
「じゃあ、水を入れますよ・一・二・三・・・・・・・約十秒で再沸騰しましたから、五十秒
で引き上げますよ・・・」
シメて盛り付けられた蕎麦を早苗は再び試食した。
「・・・さっきのよりは救われていますけど、やっぱりどこかボンヤリした食感ですね。コシ
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も弱いし、歯切れもぼやけた感じです」
「これで答えが出ましたね・・・蕎麦を釜に放つのは思い切り沸騰させてから・・・茹でてい
る間は沸騰状態を保つ・・・自分の決めた秒数茹でたら一気にシメル。以上が釜前の基本です・・・
それから、蕎麦を一辺に沢山入れるのも、差し水をしたのと同じ様なものですから、結果は分か
りますよね。と言うわけで、店の営業が始まってからは、釜前が一番重要な仕事になります。せ
っかくいい材料を使って、情熱を込めて打った蕎麦を、生かすも殺すも釜前次第です。だから、
釜前という仕事は熟練した、信頼出来る人にしか任せてはいけませんよ。さて、今度は最初に私
の茹でた蕎麦を、もう一度食べてください」
一口すすった早苗は、またも愕然とした。
つい先ほど、あれほど心地よい食感を与えてくれた蕎麦が、まったくの別物になっていた。
「まるで違う蕎麦を食べているようです」
「蕎麦のベストの状態は短い、と言ったのが分かってもらえたかな?・・・それから、いくら
上手に蕎麦が打てても、美味しい蕎麦屋にはなれない、と言ったのも」
「はいっ、良く解かりました・・・」
早苗は次々に明かされる蕎麦の不思議な特性にも驚いたが、何より驚いたのは、伝えたいポイ
ントを相手の五感に滲み込ませるような、市村の優れたコーチングだった。
自分はなんて幸運なんだろう・・・神様、ありがとう・・・と思った瞬間、脳裏にあの大ケヤ
キが見えた。
「営業が始まったら、蕎麦屋の中心は釜前ですよ。釜前が指揮者で他のスタッフは奏者ですね。
営業が始まったら終始緊張感を保ち、つゆや薬味の用意も、汁を火にかけるのも、天ぷらを揚げ
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るのも、提供も、全て釜前の様子やサインを見て進めます。釜前は常に周囲にサインを発して、
周囲はそのサインに沿ってリズム良く行動する。チームワークを誰か一人が崩しただけで、運ば
れた蕎麦は似て非なるものとなります。スタッフ全員が毎回、一品毎に阿吽(あうん)の呼吸で
ハーモニーを維持すれば、気付いた時にはお客様がウキウキしている。というわけですね」
カラッと戸が開いて最初の客が入ってきた。
「いらっしゃいませーっ」
すでに早苗も臆すことなく声が出るようになっていた。