修業 (12)
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四月八日、十時少し過ぎ、鶴屋の店内。
「それじゃ打ち合わせはそんなところで、今日はこれからさっちゃんに釜前(かままえ)を教
えますから、仕込みの仕上げは皆さんでお願いしますね」
「すいません。新米の私が仕込みのお手伝いをしないで」
「その分も、早く腕を上げてちょうだいね。さっちゃんが腕を上げてくれれば、皆んなが助か
るんだから」 小林のおばちゃんが言った。
近藤や古田のおばちゃんも笑顔のエールを送って、直ぐに自分の仕事にかかった。
早苗は市村について釜の前に立った。
「さあやりましょう。蕎麦という料理の技術の中で特に重要なのが『水回し』、次が正確で素早
い『延し』と『切り』、そしてその次が『釜前』です。蕎麦を茹でて水にさらして盛り付ける仕事
ですね。それまでにやった色々な調理の仕上げですから『蕎麦を生かすも殺すも窯前次第』と言
われるほど重要で責任の重い役目です。幾つかの手順がありますが、どれ一つ失敗は許されませ
んよ。一つでも失敗すると、他がどんなに上手く出来ても無意味です。そして実は、この窯前も
含めて、蕎麦という料理は、どの仕事でもポイントは水の使い方が要だということです。いいで
すか、思い出してみてくださいね。先ず『水回し』は・・・粉の微粒子と水の微粒子をどれだけ
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均一に合わせるかということ。原理を知らずに混ぜたものは顕微鏡で見ると、粉同士の集団や水
同士の集団だらけで、こういう蕎麦は茹でた時に均一にアルファー化しませんから、冷水にさら
してシメてもコシの無い、ぼやけた蕎麦になります。理想を言えば、粉と水の全ての微粒子が均
一に仲良く手を繋ぐことです。次に『延し』と『切り』・・・延したり切ったりすることは、生地
の表面積を何千倍にもする作業ですから、せっかく粉と一緒にした水がどんどん蒸発します。こ
の仕事は稽古で身に付けたスピードで、逃げて行く水と競争することです。目安は一、五キロの
粉で作った玉なら、十五分以内に延して切って箱に治めること。これ以上はいくら速くてもいい
ですが、当然、延し方や切り方で食感は大きな影響を受けますから、あくまで正確に速く。太過
ぎたり、細過ぎたり、平たいのは駄目です。次が『釜前』といってこれから覚える仕事です・・・
この仕事は熱湯と冷水を使いこなして、生の蕎麦を、『蕎麦』という料理に仕上げる仕事ですね。
うちの蕎麦は四十秒前後で茹だりますが、茹で過ぎも、茹での足りないのも駄目です。麺の表面
からアルファー化していって、それが芯に達した瞬間に一気に引き上げて、冷水でシメルのがベ
ストです。しかも、蕎麦粉をアルファー化するには八十数度、小麦粉は約百度の高温が必要です。
それを四十秒という短時間の一秒にこだわって茹でるのですから、湯の温度も終始百度でないと
いけません。そのためには、火力と容量にゆとりのある大きな釜を使うのと、蕎麦を一度に沢山
茹でないことです。それから、蕎麦つゆに欠かせない『出し取り』・・・これは間もなく覚えてい
ただきますが、これも水質や水の扱い方で出来不出来が決まります。ね、こうして考えると、ど
の工程でも水の扱い方が要になっているのが解りますよね。水に原理の理と書いて『水理』、この
水理が蕎麦屋の極意です。世間で水理学と言われているものとは一寸違いますけどね。だいぶ長
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い話になってしまいましたけど、これも実技を磨くより大切なことですから、いつも思い出して
くださいね。それじゃ早速、釜前をやってもらいましょうか。先ず私が試食用を少量で茹でます
から、それを真似てやってみてください」
市村が二つ並んだガスのコックをダブルで全開にすると、グオッという凄みのある着火音と同時
に、足元の空気が揺れた。容量五十六リットルの大釜の蓋が開けられると、湯気がボワーッと立
ち昇り、釜の中では沸騰した熱湯が、飛び出さんばかりの勢いでバック回転を始めた。
「この釜は沸騰すると、こうして湯が回転する設計になっていますから、箸でかき回したりし
なくても麺が自然にバラケてくれるんですよ。じゃあ見本をやりますね・・・先ず、この回転に
のせてやるように麺をパラパラと優しく投入します・・・時計の秒針の位置が一のところで入れ
ましたから、四十秒だと出すのは九のところですね・・・ですから七になったらスクイザルを入
れて麺をまとめ始めて、九になったところで一気に引き上げてボールの冷水に放す。釜の中に残
ったのがないかスクイ直してみて、あればそれも冷水に。釜は種火を残して消火、蓋をする。温
かい麺は弱いから、初めは優しく片手で軽く泳がせてから、水ごとスクイザルにあけて水を切る。
ボールに新たな冷水を注ぎつつ、スクイザルの麺をボールに戻して手早くすすぐ。また水ごとス
クイザルにあけ、ボールに新たな冷水を注ぎつつ、スクイザルの麺をボールに戻して手早くしっ
かりすすぎ、スクイザルにあけて水を切れば完成。後は盛り付けてと・・・はいっ、食感を確か
めてくださいな」
早苗は言われるままに試食した。
「やっぱり美味しいです。コシがあって、噛むとシャキシャキして気持ちいいです」