修業 (11)
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「これはいいところを見付けましたね」
「はい。来る度ここに腰掛けて一休みして帰るんです・・・実は初めてここに来た時、ここに
座ったまま夢を見たんですよ」
「座ったまま夢を・・・疲れていたんですねえ。それで、どんな夢だったんですか?」
「それが恥かしいんですが、蕎麦を打っている夢なんです・・・しかも、上手にスイスイと打
っているんです」
早苗は話しながら赤面し、耳たぶが熱くなるのを感じた。
「それは良かったですねえ。どんな習い事も夢に見るくらい胸の中に入ってくれれば、間違い
なく上達しますよ・・・それじゃあ、こんな渋い話しをしても聞いてもらえるかも知れませんね
え。ここの風景も、こうして毎日急激に変わりますけど、ここにやって来る人たちの数や雰囲気
も随分と変わると思いませんか?」
「はい、花見客の数も比べられないくらい増えたし、雰囲気なんかぜんぜん違います・・・四
日、五日辺りは、のんびり楽しんでいる感じでしたが、昨日、今日は、皆んなすごくウキウキし
た様な感じですね」
「人の気持ちっていうのは、美しいものや美味しいものから影響を受けて、急激に変わるもの
なんですよ。しかも、美しいものも、美味しいものも、見頃食べ頃はとても短いんですね。美し
いものには美しい条件がありますよね。同じに美味しいものには美味しい条件があります。その
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美味しい条件を揃えて、一番ベストの状態で召し上がっていただくのが飲食店なんですね。もう
少しすれば必ず気付くと思いますけど、中でも蕎麦はベストの状態がとても短いんです。これは
作る場面でも、食べる場面でも極めて短いですね。その神経質な料理をベストの状態で召し上が
っていただかないと、お客様はウキウキ出来ないんです。これを知っておくのは、技術を磨くこ
とより大事なことで、技を身に付けるより先に身に付けておかないと、けっして喜ばれるお店に
はなれませんよ」
「市村さんが杏の花を観察するようにって言われたのは、そのためだったんですね」
「そう、他にも目的はありますけど、特に大切な目的の一つですね。料理の修行を始める方は、
ほとんどの方が、腕さえ上げれば美味しい料理を作れるって思い込んでしまうんですね。腕は上
げたはずなのに、何故美味しいって言っていただけないのか、何故繁盛しないのか、っていう料
理人は多いんですよ。そうだ、明日は三十分早く仕込みを始めて、開店前に三十分の稽古時間を
作りましょう。いま私がお話しした意味がきっと分かっていただけますよ」
「ありがとうございます。・・・市村さん、一つ質問してもいいですか?」
「はい、どうぞ」
「市村さんは毎日、どうしてそんなに生き生きしていられるんですか?」
「あら、嬉しいですねえ、そんな風に見えますかねえ?」
「はい、とっても」
「そうですか・・・だとしたら、一日一日を大切に、ありがたく味わって生きているからです
かねえ」
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「それは、何時かどなたかに教わったことなんですか?」
「・・・特別教わったという覚えはありませんけれど、自分の中からそう言っているから、そ
うしているだけですね」
「・・・じゃあそれは市村さんの気持ちっていうか、心がそう言っているんですね?」
「・・・私の心のようにも思えますけど、もっと奥の・・・そう、自然ですね。きっと私の中
の自然が言っているんですね」
「・・・心より奥には自然があるんですか?」
「大切な家族や仲間、それから、ゆうべ見上げたお星様やお月様、今朝も元気に照らしてくれ
たお天道様、花や鳥や風、そういう自然の中で生きていられるのを、ありがたいと思って長いこ
と生きていると、自分の心の奥って自然のように思えるんですね」
「大切な人たちも自然なんですか?」
「ええ、ずっと前に亡くなってしまった人も含めてね。全部自然だから、長い間には色々あり
ますよ。晴れもあれば雨もあるし、嵐だってありますよね。嬉しいことも悲しいこともあるのが
生きているってことなんだから、生きるということは全部受け入れるということ。全部受け入れ
て、一日一日をしっかり味わって生きたいですね」
帰路二人は鶴屋を通り越し、西方の山麓にある治田公園の治田池に行ってみた。
公園の桜はまだ二分咲き程度で、池の周りに人影は無かった。