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修業 (10)

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 「ここを見てくださいな。生地のあちこちに細かなひび割れがありますよね。延すのに時間を
掛け過ぎると、こうなってしまいますが、これを『風邪を引いた』っていって、食感が悪くなる
原因の一つです。出だしだけ私が切りますね。手で狐を作ったら親指を離して、親指、人差し指、
薬指の三本の指先で駒板を軽く押さえ、包丁の側面を駒板にひたりと添えて切ります。ゆっくり
切りますからイメージを記憶するんですよ。」
 トン、トン、トン、トン、トン・・・・・・・・・・・。
 「こんな感じですよ。包丁は駒板に必ず触れていなくちゃいけませんが、強く触れるのは禁物
ですよ。極軽く触れていれば充分です。初めはゆっくりでいいですから、力まずに、リズムは一
定に。じゃ、やってみましょう」
 市村が早苗に包丁を渡した。
 初めて手にした蕎麦包丁の重みが、ズシリと早苗を威圧した。ただでさえ大きく見えていた蕎
麦包丁が一層大きく感じられ、視界の中にある包丁と手は、大男の使う包丁を子供が握った様に
見えた。
 トン・・トン・・トン・・トン・・・・・・・・。
 包丁の刃が駒板の縁を乗り越え、親指と人差し指を切断するイメージがかすめ、早苗の身体を
こわばらせた。
 「・・・慣れてきたら少しずつリズムを速めてもいいですよ」


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 と、言われても、今の早苗には無理な注文だった。
 「・・・ま、練習を重ねて慣れれば、速さはなんとかなりますが、切っている最中は集中して、
周りのことは一切忘れて切りましょう」
 こうして生舟(なまふね)の中に、早苗の初打ちの蕎麦が納められた。
 太さはバラバラ、切り屑は市村の軽く数倍だが、一応蕎麦らしき物にはなった。
 緊張の連続で早苗の口の中はカラカラに乾いていた。早苗はグラス一杯の水を一息に飲んだ。
 「初回にしては上出来です・・・リズム感もいいし、直ぐに上達すると思いますよ。ただし、
素質のある人ほど人一倍練習しなくちゃ駄目ですよ。目標を低くして満足してはいけませんね、
目標をうんと高くして自分に厳しくしないと」
 麺棒も包丁も思うに任せず、自分は特別不器用なのかと不安を抱いた早苗に、市村の評価は意
外なものだった。
 「では、もう一度初めからやってくださいな。今度は黙って見ていますから」
 「えっ、まだやっていいんですか?・・・蕎麦粉が無駄になってしまいますが?」
 「ごめんなさい。初めと言っても、この蕎麦に水を少し加えて練り直せば、後二回は延しと切
りの練習が出来ますから、練りの初めからと思って下さいね。もちろん食べて美味しい蕎麦には
なりませんが、充分練習にはなりますから。そこまでやったら、もう一度新しい粉で初めからや
りましょう。それも二回練り直して使えば合計六回の練習が出来ますから」
 「六回も練習していいんですかっ?」
 「六回しかですよ。人から教わるだけじゃなくて、自分の中から自分の声で、教えてくれる声


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が聞こえるようになるまで、何度も繰り返すんです。それに、心配しなくても、この粉は練習用
の粉ですからね。どんどん練習して、自分一人でも練習出来るように早くなってくださいね」
 「はいっ、やらせていただきます」


 「やっと辿り着けましたねえ・・・流石に日曜日だと、四時を過ぎてもこの賑わいですか」
 「道路があんなに渋滞するなんてビックリです。昨日から車は増えましたけど、まさかあれほ
ど繋がってしまうなんて」
 「でも杏の花の方は、さっちゃんの情報通り、今日から満開になりましたねえ」
 「たった四日間で杏の花はこんなに進んでしまうんですね・・・それにしても杏の里って呼ば
れる訳が解かりました。ほんとに村が杏の花に埋め尽くされるんですね」
 稽古を終えた市村と早苗は、市村の運転する車で杏の里に向かったのだが、花見客の車が渋滞
していて、辿り着くのに一時間以上も掛かってしまった。
 民家も寺も社も郵便局も、人も犬も猫も野鳥も、全てが杏の花に埋もれた山里の、ゆるやかな
斜面を二人はゆっくり登って行った。行き交う花見客の顔は、どれも春そのもので、花や風景が
人に与える影響力を早苗は改めて実感していた。
 早苗は市村を大ケヤキの下に案内した。
 杏の花海に囲まれ、大ケヤキもどことなく浮かれている様だ。
 二人は幹の様に太いケヤキの根に、並んで腰掛けた。

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