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修業 (9)

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 「前掛けをしたら、『篩(ふる)い』からやりましょう。その篩を鉢に置き、この粉を篩って
くださいね。もう三日間見ていたから、次の粉回しまでは自分でやれますよね」
 早苗は近藤の作業を脳裏でリピートしながら、『篩い』と『粉回し』をやった。
 「二八そばですから、そば粉が1.2キロに小麦粉が300グラム、合わせて1.5キロの粉
ですね。今日の加水は684グラムでやってみてください」
 早苗は計量用のボールを電子秤にのせ、きっかり684グラムになるよう水を量った。
 「さて、一番大切な『水回し』ですね。ポイントは水を鉢や手に、なるべく付けないことです。
水を粉の中央に注いで、回りの粉で包み込む様に混ぜるんですけど、混ぜ初めに粉の層を破った
中の水で鉢や手を、なるべく濡らさないことですね。それと素早く混ぜるのとを同時にすること
は、不可能と思うでしょうけど、それを可能にするのが観察と練習ですね。水を加えたら、今ま
で見てきたコンちゃんの手の動きをイメージしながらすれば、この粉の50パーセントくらいに
は理想的な水回しが出来るはずです。後は繰り返し練習していけば、上手く出来た時、出来なか
った時の自分の手や指の感触が、徐々に教えてくれるようになりますから。私でも理想的に水を


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回せるのは粉全体の80パーセントくらいですかね。何も知らない方にさせれば、せいぜい30
か40パーセントくらいでしょうか。10パーセント違ったら食感はびっくりするほど違ってし
まうんですよ。でも、原理さえ分かれば50パーセント出来る人が10パーセント伸ばすのは容
易です。じゃあ、やってみましょう」
 早苗は粉の中央に静かに水を注いだ。
 「イメージしながら自分の手がコンちゃんの手に代わったつもりで大胆に繊細に・・・そうそ
う、指の方を使って手の平はほとんど使わない・・・その辺までいったらもっと速く混ぜても大
丈夫ですよ・・・いいですよ、いいですよ。この辺りからは手の平の方も使ってどんどん強引に
やって平気ですよ・・・そーう、そう、その調子、いいですよ」
 手を動かし始めると、あれほど高まっていた心臓の鼓動も不思議に落ち着き、作業にスーッと
集中出来た。
 「水回しの勝敗はすでに決まりましたよ・・・あとは仕上げに向かって作業を進めるだけです
ね。最初はボソボソしてたのが、今はパラパラしてきたでしょ。この辺で、手についているのも
鉢に落としてから、もっと掻き混ぜて、全体が小豆やパチンコ玉みたいに、コロコロになるまで
続けてください」
 混ぜ続けると全体がパチンコ玉よりはだいぶ大きめな、ビー玉ていどの無数の球状になった。
 「もういいでしょう。後は一塊にまとめていいですよ」
 早苗は幾度か押さえ込むような圧力を掛けて一つにまとめた。
 「それじゃ練り込みましょうか。私が少し見本をやりますね。その間に手を洗いながら見てい


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てください」
 市村が練り始めた。
 「こんな感じに上半身の体重をのせて、同じリズムで同じ回数ずつ練っては、生地の向きを
90度変えて、また練る。じゃあ、後をやってみてくださいな」
 早苗が市村を真似て練り始めた。しばらく練り続けると、だんだん体温が上がって汗ばんでき
た。腕にも少し疲労を感じ始めたところで市村が声を掛けた。
 「はい、充分ですね。そこからは少し力を抜いて、練り込むというより生地を真ん中にまとめ
るような感じで小刻みに・・・そう、その調子・・・一周全部やったら横に向けて転がす・・・
左手の手の平は倒れないように添えているだけ、右手を斜めに使って軽く押さえつけながら転が
すんですよ・・・そうそう、初めはその程度に出来れば上等です・・・みぎが尖ってきたから、
今度は両手に挟んで転がす、尖ったところが無くなって、鏡餅みたいになるまで・・・違う違う、
ちょっと貸してみてくださいな・・・ほら、こんな感じに・・・力はぜんぜん要らないんですよ。
軽く挟んで転がせば、はい、完成。これを鉢の真ん中に置いて、こうやって徐々に潰して円盤に
する。じゃ、後をやってみてください」
 早苗は言われたようにして円盤を仕上げた。
 「いいでしょう、それをこの打ち粉の上に置いてくださいな」
 と言って市村は延し台の上に打ち粉を丸く打った。
 「生地の上にも打ち粉を打ってから、『潰し』ですね。さあどうぞ、イメージですよ。ここでは、
円盤の端の肩を残すように仕上げるのがポイントです」


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 早苗が潰し始めた。
 「そう、そんな感じでいいですよ・・・スピードを上げましょう。時間を掛けると生地が風邪
を引いてしまいますよ・・・そうそう集中力とスピード、それからリズム」
 生地は反時計回りに徐々に潰され、二回りほど大きくなった。
 「はい、そのくらいで丁度いい大きさですね。今は3周くらい潰して、その大きさにしました
が、出来れば2周でそこまでにするんですよ。では、いよいよ麺棒を使って延してください・・・
そう、その短い方の延し棒ですね。先ずは『丸出し』から。1周を時計みたいに12回に分けて
延しますよ。1時から12時まで目印を付けたつもりで、先ず12時の向きから延し始めて、1
周すると丁度11時の位置まで延し終わるようにね。始まりの3回だけ私がやりますから、同じ
様に後9回やって、今より二回りほど大きな円にしてください。いいですか上半分だけ延してい
きますよ。こうして麺棒を真ん中に置いたら押さえつけ気味に転がして、上の端の一歩手前で止
める。次は1時のところが真上に来るように、生地を少し左に回転させてから同じ様に延す。次
は2時が真上に来るように少しだけ回転、そして延す。麺棒は端の一歩手前で止めてくださいね。
円盤の肩が潰れてしまいますから・・・はい、こんな感じです、解かりましたね。じゃ、残りの
3時から11時を自分でやってください」
 早苗は手本のイメージを繰り返して一周延した。
 それからどの位の時間が経ったのか、時計など見る余裕も無く、思うようになったり、ならな
かったり、青くなったり赤くなったり、とにかく市村の何倍もの時間をかけて、まな板の上に、
少しいびつに畳まれた、反物の様な生地が横たえられた。

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