修業 (8)
四月七日、午前八時。 鶴屋。
市村と早苗がカウンターに並んで腰掛け、お茶を飲んでいた。
早苗の前にはレポート用紙が置かれている。
「じゃあ、今日は蕎麦粉の勉強からしましょうか。ざっとお話ししますけど、何か質問があっ
たら途中でもいいですから聞いてくださいね」
「はい、お願いします」 早苗はボールペンを手にした。
今日は日曜日で鶴屋の定休日なのだが、市村の厚意で休み返上のマンツーマン特訓をしてもら
えることになった。
「先、ず自分の使う食材のことを知っておかなくちゃいけませんね・・・蕎麦粉の質は、品種、
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生育環境、収穫後の処理方法、輸送状態、保存方法、それから製粉方法といった色々なものが組
み合わさって決まるんですよ・・・特に気にするのは生育環境で、国産か外国産か、国産なら北
海道産か、信州産か、九州産かというように様々ですね」
「どこ産のそばが上等なんですか?」
「先ず国産を選ぶこと。次に高冷地のものがいいでしょうね。信州産に人気があるのは高冷地
だからですが、北海道と九州なら北海道ですね。それに、高冷地か北の物の方がが品質が長持ち
しますよ」
「処理方法というのが良く分からないいんですが」
「一番気にするのは天日乾燥か人口乾燥かのちがいですね。天日乾燥といって、陽に当てて乾
かす方が上等で、人口乾燥というのは機械で乾燥させる方法ですね」
「輸送状態にも違いってあるんですか?」
「大ありですね。例えば外国産だと船で運ぶことになりますけど、船倉へ大量に詰め込んで運
びますから、保存方法で大切な低温恒湿は不可能。つまり、超長距離を運ばれることになる外国
産の蕎麦は、悪い環境に長時間置かれた蕎麦ということです。しかも、微生物や害虫の発生を防
ぐためのポストハーベストは、まず施されると考えていいですね」
「ポストハーベストというのは何ですか?」
「収穫後に、さらに施される殺虫剤とか防腐剤のようなものですね。ただでさえ大量の農薬を
施された可能性のある蕎麦に、さらに上塗りするわけですから、手打ち蕎麦屋をするなら、国産
の蕎麦でないと使えません」
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「保存方法は低温恒湿がいいんですね?」
「十五度以下で湿度七十パーセント以下の恒湿、それで無酸素なら完璧ですね。ただし、低温
保存したものは、外気にさらすと劣化が早い欠点がありますから、出した分は直ぐに製粉して、
使い切ってしまわないといけません。製粉方法は大きく分けて石臼製粉とロール製粉があります」
「先日読んだ蕎麦の本に、美味しい蕎麦を作るなら石臼製粉でってありましたけど、そう覚え
て良いんでしょうか?」
「その通りですね。ロール製粉は、金属のローラーの間ですり潰す方法ですが、石臼製粉でな
くちゃ駄目って覚えていいくらい差があります」
「何故そんなに違いがあるんですか・・・というか、どんな違いがあるんですか?」
「ロール製粉は短時間に大量の製粉が出来るので、主に外国産の蕎麦粉を挽くのに使われて、
安い蕎麦粉の大量生産を可能にしますけど、構造上、挽く時に蕎麦に熱を与えてしまいますから、
蕎麦の風味が製粉によって奪われてしまうんですね。しかも、粉の微粒子の形状や大きさが均一
になってしまって、食感が平べったい単調なものになってしまいます。石臼で挽かれたものは熱
も受けていませんし、微粒子の形状や大きさがバラバラですから、これが風味と食感にいい影響
を与えてくれる訳ですね」
「同じ蕎麦の本に『玄そば』っていう言葉が何度も出てきましたが、『玄そば』というのは、黒
い皮に包まれたままの、蕎麦のことでしょうか?」
「その通りですね、言い換えれば、まだ生きている蕎麦の種子ですね。で、その黒い皮を外し
たのを『抜き』と呼びます。皮を外されたら種子は生きていられませんから、一刻も早く粉にし
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て使ってしまわなくてはいけませんね」
「お米と同じように考えていいんでしょうか?」
「・・・いいですね。本当に美味しいご飯を食べたいなら、籾付きで貯蔵して、食べる分だけ
精米するのが理想ですよね」
こんな調子で二時間ばかり蕎麦粉のことを教わった。
「じゃあ実際に蕎麦を打ってもらいましょうか」
「えっ、蕎麦を打つって、私が打つんですか?」
早苗が恐る恐る聞いた。
「他に誰が打つんですか?」
「でも私まだ四日目ですよ・・・」
「知識も大切ですが、上達の近道は何といっても実践ですよ。出来るだけ多く材料に触り、道
具に触り、練習することです。たとえ直ぐに上手くいかなくても、経験していれば、その先で、
他の人の打つのを見ても、見るところが変わってきますから」
早苗はこんなに早く実技をさせられるとは思ってもみなかった。胸の中で不安と期待が忙しく
回転し、心臓のリズムが急に速くなった。