修業 (3)
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「気を遣わなくてもいいですから、今日のさッちゃんは、他の人が何を考えて行動しているか、
良く観察してください。とりあえず今朝は、コンちゃんの鉢仕事に張り付いて、鉢仕事を覚えて
ください。その内さっちゃんにも仕込んでもらいますからね」
近藤が練り、市村が打ち、早苗は観察、この関係での仕事が十時近くまで繰り返され、近藤の、
鉢仕事が終わり、市村は最後に渡された玉を打っている。
若い近藤はともかく、四時間近く休みなく打ち続けても、市村に疲労の気配はまったく無い。
「さっちゃん、そこのネギを洗って、まな板の脇に載せてくれ」
手を洗いながら近藤が指示した。
早苗がネギを洗っている間に近藤は水の入った寸胴(ずんどう)を火に掛けた。水底には昆布
が入っている。
「この寸胴の水の表面が微妙に動き始めたら教えてくれ。これで『もり汁』の仕込に使う『出
し』を取るんだ」
「『もり汁』って何ですか?」
「もり汁っていうのは、蕎麦つゆのことだよ」
近藤は大量のネギを切り始めた。
「出しの仕込みは、他の仕込みをしながらでも出来るけど、うっかりグラグラ沸騰させたりし
たら、その出しは使えなくなるからね。それぞれの仕事に全て外しちゃならないポイントがある
から、そこだけは早く覚えるんだよ」
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「はい、分かりました・・・ネギ切りにポイントはありますか?」
「あるよ。先ず良く切れる包丁を使うこと。切れ味の悪い包丁だと切断面が汚くなるからね。
それで正確に素早く。ま、初めは正確に。そして、刻んだネギは水にさらしてから使うんだよ。
さらし方は後で教えるから」
十時になると女性スタッフが二人やって来た。 市村が早苗と二人を紹介した。
一人が小林君子という四十代後半かと思われる主婦、もう一人が古田久江という、ふっくらし
た五十代半ばかと思われる主婦で、二人とも千曲市内の人たちだ。
「十代で蕎麦打ちを習うなんて感心ね、頑張りなさいよ。ようしっ、うんとしごいてやるか」
小林がパキパキとした口調で言った。
「コンちゃん、良かったねえ。今までオバサンばかりで張り合いが無かったのに、今日はずい
ぶんシャキッとして男前に見えるねえ」 古田がからかった。
「ふん、いつだって男前だよ」
近藤の切るネギの切り幅が一瞬乱れたが、誰も気付かなかった。
新米の早苗は、おばさん二人の手伝いに回った。二人はこの店に長いらしく、二人が加わると
開店に向けての準備は着々と進んだ。
早苗は慣れない仕事をしながらも、火にかかった寸胴の様子を気にしていた。
「近藤さん、お湯の表面が何となく動き始めましたが」
「どれどれ・・・」
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近藤は昆布を一枚引き上げると、つまむようにして爪を立てた。
「うん、いいね。ここで昆布を引き上げてしまうけど、この状態を覚えておくんだよ」
近藤は昆布を取り出し、しばらく待ってから削り節を加えた。
「理想のさざ波状態だ。ここからは、この状態を保つように火力を微調節して見張るんだ」
十時四十五分、仕込が完了し、お茶をいただきながらのミーティングが始まり、改めて早苗が
オバチャンたちに紹介された。ミーティングの内容は、ほとんど早苗に対する指導方法が中心に
なった。
十一時、開店の時間だ。
「さっちゃん来て、のれんの掛け方教えるから」
玄関に行きかけた小林が振り向いて呼んだ。
「接客の方法は、私たちの仕方を良く見て覚えるのよ。先ず基本の、いらっしゃいませと、あ
りがとうございましただけど、口先だけで言っちゃ駄目。毎回心を込めて言うんだよ。接客はい
くら若くても甘えちゃ駄目。大人としてのプライドを持ってね」
「はい分かりました。ありがとうございます」
「そうそう、その調子。今の、心こもっていたよ」
と言って、小林は引き戸を開け、のれんを掛けた。
「それから、こうして表に出る機会のあった時は毎回、戻る前に必ず回りを見て、ゴミが落ち
ていたら拾って戻る。これは習慣にしてしまうこと」
「はい」
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「よしっ、じゃ中に戻って、何か準備で手落ちが無いかチェックしようか」
早苗を伴った小林は客席を一周し、さらにトイレから厨房まで、チェックポイントを、いちいち
声に出して回ってくれた。
早苗は忙しくメモを取った。