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修業 (4)

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 カラッと入口が開いて、背広を着た二人連れの客が入って来た。
 「いらっしゃいませー」
 それぞれが、ほぼ同時に挨拶をしたが、初回の早苗の挨拶は少々心細いものだった。
 「駄目駄目、そんな挨拶じゃ蕎麦が不味くなっちゃう。私達がお客様と、どんな挨拶や説明や
会話をしているか、いつも聞き耳を立てて身につけてね」
 湯のみにお茶を注ぎながら小声で言うと、小林はお茶を持って客席に行った。
 小林が客に杏の開花情報を尋ねられた。
 「昨日が二分咲きでしたから、今日は天気もまあまあですし・・・午後には、きっと3分か4
分咲きくらいじゃないでしょうか」
 「満開になるのは何時ごろと予想しますか?・・・外れても恨みませんから、貴方の予想をズ
バリ教えてくださいよ」 客が聞いた。
 小林は指をゆっくり三本まで折ると、


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 「そうですねえ・・・今日くらいの陽気が続けば七日か八日辺りでしょうか」
 と答えた。
 「そうですか、七日か八日からですか・・・やっぱり見に行くなら満開がいいんでしょうねえ?」
 「そりゃ何といっても満開がいいですね。梅や桜はともかく、杏は満開に限りますかねえ・・・
ただ、満開は四、五日くらいで過ぎちゃいますから、うっかり出来ませんよ」
 「ありがとうございます。ようし、今年は絶対に満開を見に行くぞ・・・ところで、もりの大
盛り二つね」
 「はい、もりの大盛りがお二つですね」
 注文を受けて戻ってきた小林は、
 「もりの大盛り二つですっ」
 と、カウンター越しに声をかけた。
 「はいっ、もりの大盛り二つっ」
 近藤が活きのいい声で返し、大盛り二人前の蕎麦を量って市村に渡した。
 釜の火を全開にして待っていた市村が、煮えたぎる湯に蕎麦をハラハラと投入し、蓋をした。
 「これが『もりそば』を出す時のセット一式だ。『ざるそば』の時も同じだからね」
 と、教えながら近藤は二枚の角盆に載せる、蕎麦つゆや薬味を用意した。
 市村が蕎麦をすすぎ、せいろに盛り付け、角盆に載せると、小林が素早くテーブルに運んだ。
 それからは次々に客が入って来たが、市村や他のスタッフに慌てる風は無く、着々と蕎麦が茹
でられ、運ばれてゆく。


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 「食器を下げたテーブルは直ぐに拭いてちょうだいね。新しいお客さんが座ってから拭いたん
じゃ、失礼になっちゃうから。それと、腰掛や座布団の上も毎回チェックするんだよ」
 小林オバチャンの指示が矢継ぎ早に飛ぶ。
 「お茶三つ用意して。手早くね。済んだら蕎麦湯二つもね。それから、手の空いた時は少しず
つでも食器洗いをしておくこと」
 と、さらに飛ぶ。
 グレーの作業服を着た、常連らしき年配の男性客が一人でカウンターに座った。建築関係の人
らしく、胸ポケットから三角スケールの端が覗いている。よく使い込まれた手でお茶をすすると、
カウンター越しに、
 「おや、今日は新人がいるんだねえ」 と言った。
 「ええ、今日から孫が手伝ってくれるって言うものですから」
 「おや、お孫さんかね。それは感心感心」
 早苗は何と言っていいものやら困ってしまったが、よほど親しい客なのか市村は平気で嘘を続
けている。
 「私に似ておりますかねえ」
 「言われて見れば良く似ているなあ」
 「黒岩さん。冗談ですよ。この人は今度、そば打ち修行をするということで、安曇野の大事な
方からお預かりした、お嬢ちゃんなんですよ」
 「なんだ、おかみさんも人が悪い・・・ほう、お嬢ちゃんがそば打ちをねえ。頑張れって言い
たいところだが、その身体で大丈夫かなあ」


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 「黒岩さん。蕎麦打ちは、力が無くても出来るんですよ」
 「そうかねえ・・・力が無くて、蕎麦が打てるとは思えないけどなあ」
 「さっちゃん。これは早く上手になって、証明してもらわなくちゃいけませんねえ」
 「そうだよお嬢ちゃん。参りましたって言わせてもらいたいもんだな」
 「はい、頑張ります・・・」
 と、言ったものの、修行初日の身にとって、蕎麦打ちが如何なるものか、皆目見当が付かない。
 黒岩は出された『もりそば』を、すすっと食べ、蕎麦湯を忙しく飲むと、
 「ご馳走さん。あなたの打った蕎麦を食べさせてもらうの、楽しみにしてるよ」
 と言って席を立った。
 「ありがとうございました」
 今度は心を込めて言うことが出来た。
 その後はカウンター席にも次々客が座り、店は満席状態で空席待ちの客も出るようになったが、
四人のメンバーは落ち着いて、てきぱきと仕事を進めている。中でも市村は忙しくなるほどに、
楽しんで仕事をしている様に早苗には思えた。
 食器洗いに専念している早苗の耳元で小林が、
 「自分が今やっている仕事のことだけ考えている様じゃ駄目だよ。目の前の仕事をこなしなが
ら、次にやる仕事を自分で探すこと。ま、慣れたら、次の次くらいまで探して当たり前かな。そ
れから、それとは別に、お客様の様子には常に気配りを忘れないでね。まめに店内を見回して、


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何か不便している方はいないか、追加注文しようとしている方はいないか、少しでも早く気付い
て、対応して差し上げること。料理を運んだり下げたりすることより、そちらの方がずっと大切」
 と、囁いた。
 「さっちゃん、一緒に来て二番のテーブル片付けてくれるかい」
 古田のおばちゃんが呼んだ。
 一緒に片付けながら、片付けの要領を古田が教えてくれた。古田は小林ほど教え上手でなかっ
たし、手も遅かったが、一つ一つの仕事が丁寧で確実だった。また、ふんわかとした包容力を客
にも他のスタッフにも与える、店の大事なムードメーカーだった。
 早苗は小さな目標を立てた。それは自分が他のスタッフの邪魔をせずに、少しでも役に立てる
存在になるということだった。そのためには、スタッフ全員の様子を観察して、その人が何を考
えて行動しているのか、少し先が読めるようになろうと思った。テーブルを片付けるのと、食器
洗いで早苗は手一杯になったが、周囲の観察だけは怠らないようにした。

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