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修業 (5)

 二時を過ぎると、今までの喧騒が夢だったかのように静かになった。店内には三組の客がいた
が、近藤と小林が先に奥の座敷で昼食を済ませた。
 二時半になると代わって店を近藤と小林に任せ、市村と古田と早苗が食事をした。
 「今日は暇な方だったけど、土曜日はもっと忙しくなりますよ。ねえ、おかみさん」


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 漬物を食べかけた手を止めて古田が言った。
 「土曜日は五時から打たないと、蕎麦が足りなくなるくらいですからね。どうですか、初日だ
からくたびれたでしょう?」
 「いえ、緊張しっぱなしで疲れたのかどうかまだ分かりません。疲れたような、なんともない
ような・・・」
 「初日にしては、回りを良く見ていましたねえ、あれは続けるといいですよ。他の人の動きを
観察するのは、どんな仕事でも大切ですからね」
 茹でてさらして盛り付けて、あんなに忙しく働きながら、私の方にまで目を配っていたのか・・・
だとしたら、テーブルの片付けと食器洗いをしながらの観察なんか、出来て当たり前、一日も早
くスタッフの行動の一歩先を読めるようになってやる、と早苗は思った。
 「古田さんの家は農家だけど、さっちゃんのお宅も農業をしているんですよねえ?」
 「はい、お祖父さんが元気だったころは、ワサビを作っていました。お米や野菜は少しで、家
で食べる分を作った程度らしいです。お祖父さんとお祖母さんが亡くなってからのワサビ畑は、
荒し畑になっていたんですが、これから手入れして、また復活させるみたいです。古田さんのお
宅では何を作っているんですか?」
 「うちは果樹が中心でリンゴとブドウ。それから野菜は辛味大根を作っているんですよ。麦も
少し作っているけど、これは地元のおばさんグループが始めた、『地粉でうどんを作る会』に頼ま
れた分を作る程度」


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 「うちで『おしぼりそば』や『おしぼりうどん』に使う辛味大根は、古田さんが作ってくれた
大根なんですよ。古田さんはこんなに優しい方なのに、出来る大根は飛び切り辛くて、まるで小
林さんみたい」
 市村と古田が楽しそうに笑った。
 
 四時近くになって片付けが済んだ。
 山の手の家に夫と二人暮らしの市村だが、ご主人が病身なので、家に帰ると直ぐに家事が待っ
ているらしい。このおばあちゃんは、こんなに働いた上に、まだ働くのかと驚いていると、なん
と夕食後は、長年メンバーになっている地元のコーラスグループの練習にも行くという。
 早苗は光明の叫んだのを思い出した。
 スーパーばあちゃんだっ!

 後片付けの済んだ早苗は、借りたババチャリで約五キロほど東の「杏の里」に向かった。途中
千曲川を渡る千曲橋の上に来ると、昨日両親と眺めた川原の淡い新緑が美しかった。
 こういう時だからこそ風景を眺めろか・・・昨日の父の言葉を思い出した。そういえばアメリカ
人はどんなに窮地に立たされてもジョークを大切にする国民性だと、何かで聞いた覚えがあっ
た・・・日本人は季節の風景を大切にする国民性かな、などと考えた。それが出来ることが大人
と子供の違いのようにも思えた。


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 橋を渡り街中にひとしきりペダルをこいで、しなの鉄道の「やしろ駅」まで行った。駅前で左
折して周囲の屋並みを見物しながら行くと「須々岐水神社」に突き当たった。神社前のT字路を
右折し、踏み切りを越え、右手に「科野の里ふれあい公園」、次に「県立歴史館」と眺めながら長
い直線道路を行くと、右手の小山の頂に「森将軍塚古墳」が望まれた。
 やがて前方のY字路に「↑杏の里」の標識が現れた。標識に従って右折し、さらに一キロほど
走って行くと、前方の穏やかな山あいに、淡くピンクに染められた集落が現れた。
 低いところには民家が並び、その中心を貫いて小さな川が流れ、民家の間を杏の花のピンクが
埋めている。
 集落の背後の斜面まで、淡く色づき始めているところから察して、開けた山あいの全てが杏園に
なっているものと思われる。花の状態は、川の周辺で小林の話し通り四分咲き程だった。
 枝道で左手の傾斜地を上の方へ行ってみると、杏の木の数は増え、周囲はほとんど杏の木に
埋め尽くされた。ただ、この辺りは標高が僅かに高いためか、花は二分咲き程度だった。
 この杏の木が全部満開になったら、いったいどんな景色になるのだろうか・・・間もなくそれが
自分の目で確かめられるのを想像すると、早苗はときめくものを覚えた。
 下の集落を見下ろすと、杏の花に埋もれる杏の里が出来かかっていた。
 近くの杏林の中に、杏の木々を押し退けて、一際大きなケヤキの巨木が立っているのを見付け、
行ってみた。
 近寄って仰ぐと、そのケヤキは驚くほど巨大で、まるで岩壁を見上げる様だった。
 幹の様に太い根を地上に長く這わせて、巨体をがっちりと支えている。
 早苗はその根に腰掛けて一休みすることにした。


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 それまでは初日の緊張感で、疲れを感じる余裕すら無かったが、座り心地のいい根に受け止め
られ、ほっとすると直ぐに、夢の中に居た。上下とも白衣を着て前掛けをつけた早苗は、麺棒を
巧みに操って気分爽快に蕎麦を延している。麺棒と延し台の間に起こる軽やかでリズミカルな
音が耳に心地良く、スイスイと生地が延びていく。
 直ぐに目が覚めた。急いで目をつむってみたが、もう何も見えなかった。
 早苗は後の大ケヤキを振り仰いだ。そして腰掛けている根に両手を当ててみた。今の夢は大ケ
ヤキが見せてくれたような気がした。
 早苗は明日も明後日も、この大ケヤキに来ようと思った。

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