修業 (6)
四月五日、穂高南小学校。
入学式を終えた子供達が正門から出てきた。
光は四年生だが、転校初日なので母親同伴だ。
校庭の北東端の十字路に先頭の子供達が差し掛かると、ハーモニカの音が流れてきた。
気付いた子供達が音のする方に目をやると、桜の木の下に背の高いやせた中年男が一人たたず
み、ハーモニカを吹いていた。、
「あっ、牧のノリサだっ」
子供たちの間から声が上がり、子供たちは土手を乗り越えて桜の木の下に駆け寄った。
「え、ノリサ?ノリサって何?」
新入生の小さな子供達は、分けも分からずに駆けていって、年長の子達の間から恐る恐る首を
出している。
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ノリサは、形の崩れかかった紺のチロリアンハット、袖丈の短い紺のブレザーと、裾丈の短い
紺のズボンといった何時もの身なりで、気持ち良さそうにハーモニカを吹いている。。
「あっ、ノリサだっ」
光も駆けて行ったが、そこはノリサと子供達の世界、恵子たち父兄は遠巻きに眺めていた。
子供達が集まるとノリサはハーモニカを止めて、桜の枝をつまみ寄せ、黙って指差した。
「あっ、桜が咲いたね」 子供たちの誰かが言った。
ノリサはニコリと微笑むと花の二輪付いた枝を離し、再びハーモニカで早春賦を吹き始めた。
素朴な演奏だが、ノリサ独特の穏やかで味わい深い音色だ。
穂高南小学校は西側を除く、敷地の三方を桜並木に囲まれていて、ちょっとした桜名所で知ら
れるが、後数日でここの風景は、北アルプスを背景に別世界の装いを見せる。
演奏が終わると、
「ノリサ、今度は私達が歌うから、もういっぺん吹いて」
と、年長の女の子がアンコールをせがんだ。
ニコリとするとノリサは再び早春賦を演奏した。
子供たちの間から歌声が上がった。
ハーモニカと子供達の歌声は美しく交わり、桜の枝の間を流れていった。
「ノリサ、次はお話ししてよ」
「ノリサ、お話しっ、お話しっ・・・」
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ノリサは小さな声でポツリポツリと話し始めた。
あんなに小さな声で話しているのに、子供たちには何故聞き取れるのか、離れて見ている大人
達は、それが不思議でならなかった。
しばらくそんな時間を楽しむと、ノリサは何時もの様にリヤカーを引いて牧へ帰って行った。
午後は文吉のコーチの元、晃と恵子は復活させた畑に作物の種の初蒔きをした。
先ず蒔いたのはニンジンとゴボウだ。
東(晃の家)の畑を先に済ませてから、西(文吉の家)の畑にも蒔いた。
東の畑の近くにあるコブシも、西の庭の梅も、いつの間にか満開を迎えている。
午後の三時になって、晃夫婦と文吉夫婦、そして光の五人が西の東屋でお茶を始めた。
「光は無事四年生になれたけど、早苗はどうしているかなあ」
文吉が心配そうに言った。
「それが早苗ったら、自分の方から電話するまでは、電話を掛けないでって言うのよ。電話さ
れて弱気が出たら困るって思っているみたいで」
「根性があるのはいいが、あんまり頑張りすぎるのも心配だな・・・ハル、杏の花見にでもか
こつけて様子を見てこようか」
「そりゃ私だってそうしたいけど、子供扱いしている様で嫌がるだろうし・・・」
「お花見なら僕も連れて行ってよ」
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「ほうか、光も行きたいか」
「おいおい、根性があるもなにも、まだ行ったばかりだよ。早々に保護者が覗きに来たんじゃ、
鶴屋さんだって迷惑だよ。大人として預けたんだし、少しくらい淋しさや辛さを経験するのも自
立の肥やしさ」
「そうさなあ・・・確かに鶴屋さんに迷惑だろうし、まあ、しばらく我慢して向こうからの便
りを待つことにするか」 文吉が渋々言った。
「だったらお父さん、私の顔見る度に、電話なかったかって聞くの、止めてよね」
「ははは・・・ま、お互い弱い心を支え合って行くってことで・・・」