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修業 (1)

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 翌朝五時から早苗の修業が始まった。
 初仕事は掃除だったが、初めてなので近藤も早出して教えてくれた。
 掃除の仕方は一度で覚えて、明日からは一人でやらなくてはならない。
 六時になると市村がやって来た。
 店の西方の山麓に建つ自宅で夫と二人住まいの市村は、そこから車で通勤している。
 市村は、ほうじ茶を一口すすると、いつもの歌う様なリズムで話し始めた。
 「それでは先ず初めに覚悟をしていただきましょうか。近い将来には、さっちゃんの打った蕎麦
を、お客様が大切なお金と時間を使って、わざわざ食べに来るんですからね。それにお応えす
る職人としての自覚を持たなくちゃ駄目ですよ。私がさッちゃんに教えることの半分は覚悟だと
思ってください。身に着くまでは毎日自問自答してくださいね」
 「はい、分かりました」
 ノートの最初のページに『覚悟』と大きく書くと、気持ちが体内で音を立てるほどに引き締ま
った。しかし、同時に早苗はある種の快感を覚えた。そして胸の中でザワザワしていた不安は、
すっかり消え去っていた。これからの毎日は、このページを開くことから始めようと思った。


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 「ということで、残りの半分について勉強を始めましょうか。覚えることは沢山ありますけど、
一つ残らず正確に覚えてくださいね。それも、考えなくても手が動く様になるまで。うちの蕎麦
は色々な作業の一つ一つを正確に、そして素早く運ばないと台無しになってしまう、とても厄介
な蕎麦です。大変でしょうけど、私も一緒に頑張りますからね」
 「はい、頑張ります」
 「さっちゃんも色々覚えたら、私たちの仕事と平行してやってもらいますけど、直ぐには無理
だから、今朝は私たちの仕事を見学して、要点をメモしてくださいね。じゃあ早速やりましょう。
コンちゃん、とりあえず最初の玉を作るところまでお願いね。私が解説しますから」
 近藤は、周囲と縁を黒漆、内側を朱漆で塗り分けた、大きくて分厚い木鉢に蕎麦粉を入れ、
両手で掻き混ぜ始めた。
 「ポイントが沢山あるから次々に言いますよ。聞き漏らしたり、理解できなかったりしたら、
そのつど聞いてくださいね。分からないまま残さないように・・・まずこの木鉢だけど、漆塗り
でなくちゃ駄目。それも本漆で仕上げたものでないと、『水回し』にも悪影響が出るし、同じ作業
を繰り返したくても、鉢が汚れてやりにくいですよ」
 「『水回し』って何ですか?」
 「水回しはこの後直ぐに始まるから、ちょっと置いておきましょう・・・今やっている作業は
粉回しという仕事で、この蕎麦は二八蕎麦だから、小麦粉二と蕎麦粉八とを良くかき混ぜるのと、
粉の間に空気を入れて隙間を作るのが目的。これをしないと次の水回しが上手くいかないんです
よ。それから、この作業をする前に、使う粉は必ず篩(ふる)っておくこと。作業の順番を付け
ると篩いが一番、二番が粉回し、三番が水回しね」


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 粉回しを済ました近藤が、量りに載せたボールに水を慎重に注いでいる。
 「水回しをするために使う水は、毎回一グラムも違えないように量ること。でも温度や湿度が
変わったら、入れる水の量も微妙に変えますよ。要するに適正と決めた水量に対して一グラムも
違えないと覚えてね・・・じゃあ、適正の水量はどうやって決めるのか、となるけど、これはも
う少し覚えてからの方が理解しやすいから、後で」
 近藤はボールの水を粉の中央に注いだ。
 「さあ、蕎麦屋の仕事で最も大切な『水回し』の始まりですよ。先ず水を加えたら待った無し、
どんどん手を進めないと台無しになっちゃいます。コツは、なるべく水を鉢に付けないように、
水は常に粉に包まれた状態で無限に分けられていくのが正しいイメージです。そのために、この
段階では手のひらを使わず、指先だけで混ぜています。コンちゃんの両手の素早い使い方をよく
観察してください。ただ掻き混ぜているだけじゃないですからね。それから、今はボソボソして
るけど、直ぐにパサパサになってきますよ・・・ほら、言っている間に変わってきた」
 近藤はパサパサになっても掻き混ぜ続け、米粒の様に細かなパラパラになったところで手つき
を変え、手のひらでも圧力を掛けながら力強く混ぜ始めた。
 「ここから先は手のひらも使って混ぜます。ほぼここまでで、この蕎麦の素性は決まってしま
いましたよ。きっと美味しい蕎麦になるでしょう。今はコロコロを目指して混ぜ続けているんで
すよ」
 蕎麦は間もなく沢山のパチンコ玉のようなコロコロ状に変わった。
 すると近藤は全体を押さえつけるようにして圧力を掛け、一つの塊にまとめてしまった。


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 「次は『練り』ですね。練りの足りないのはいけないけど、練り過ぎても力と時間を無駄にす
るだけですよ。練りは必要なだけすれば充分。世の中では、この練りが鉢仕事のポイントだと思
っているようですけど、実は、蕎麦の素性は練りに入る前に決まっているんですね。水回しを失
敗した粉は、千回練っても美味しくは出来ませんよ」
 近藤は生地の向きを次々に変えながら、伸ばした両腕に上半身の重心をリズミカルにのせて練
り込んだ。しばらく練っていた近藤は、いったん手を洗い、再び少し練ると生地を整った円錐形
にしてから尖った方を潰して分厚い円盤を作った。
 「蕎麦粉と水を混ぜて練り込めば、誰がやっても見た目は似たようなものが出来ますけど、そ
れを打ったり、茹でたり、ましてや食べたりしてみると、まったく違うものだとわかりますね。
水回しというのは、科学と感覚を一体にした、水芸みたいなものなんですよ・・・この意味は、
いずれ何度も体験することになるでしょう」
 そこまで解説していた市村は延し台の前に立ち、台の手前に打ち粉を丸く打った。
 「はい、お待たせ」
 と言いながら近藤が、延し台の打ち粉の上にトンッと置いた、円盤状の蕎麦生地の表面は、見
るからに滑らかでしっとりしていた。
 「私が打ちますから、ここから先はコンちゃんの解説を聞いてくださいね」
 市村は背を向けると円盤状の生地を、下に伸ばした右手の鞘底(しょうてい)で、反時計回り
に小刻みに潰し始めた。

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