弟子入り (5)
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「ごめん下さい」
閉店後の片付けも済んで静まり返った店内に、掛けた声が思いの他くっきりと響き、早苗の緊
張感を高めた。
「はいっ。これはどうも、いらっしゃいませ。ちょとお待ち下さいね」
カウンター越しの調理場にいたのは、先日の白衣の若者だった。
「おかみさーんっ、泉さんがおみえです」
裾を刈り上げた髪と、さっぱりとしたうなじが清潔感を与えた。
直ぐに奥から市村が現れた。
「いらっしゃいませー。先日はこんな遠くまでお出掛けいただいて、ありがとうございました」
三人も代わる代わる挨拶をして座敷に通された。
「佐野さんから伺いましたけど、お譲ちゃん、自分から修業したいって言ったんですって
ね・・・私も昔、同じようにして修業に行ったから、今のお気持ち分かりますよ。ただ、私の場
合はもっと年を取ってからですけどね。そんなにお若いのに偉いですねえ。私もうんと応援しま
すから頑張ってくださいね」
「よろしくお願いします」
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それだけ言うのが精一杯だった。言葉にしたいことは次々と浮かぶのだが、その言葉が胸の中
でグルグル回るばかりで、上手く組み立てることが出来ない。
「先日の目の覚めるような蕎麦を頂いてから、あの感動が忘れられないものですから、あの蕎
麦の技を、私達がこれから安曇野で開くお店の柱にさせていただきたいと思いまして、厚かまし
いお願いだということは承知しているのですが」
言って恵子が頭を下げた。
「それから、予めお伝えしておかなくてはいけないのが、洋食の仕事を長年してきた家内が中
心になってやる店なものですから、教えていただいたものを色々にアレンジして使わせていただ
く可能性が高くて、その点が、市村さんに対して失礼になるのではないかと心配しております」
「・・・泉さん、それはご心配には及びませんよ。蕎麦の基本はしっかり覚えていただきます
が、それをどのように活かすかは、その方、その店によって違って当然です。例え意識してアレ
ンジしなかったとしても、人の嗜好は千差万別なんですから、長年営業しているうちには味や提
供の仕方は変わってくるはずです。泉さんのお話を佐野さんから伺った時に、フランス料理をさ
れた方が、この蕎麦をどんな風に活かすのか、むしろ私の方が興味津々です。ですから、私もお
願いしたいんですが、普通の弟子入りではなくて、泉さんと鶴屋の業務提携ということにしてい
ただけると、ありがたいんですがねえ」
「私なんかの技術やアイディアでよろしければ願ってもないことです。そんな風におっしゃっ
ていただけて、少し気持ちが楽になれました。ありがとうございます」
「それから、この度の修業は家内がというつもりで話し合いましたが、突然、娘の方から自分
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を行かせてくれと言い出しまして、まだ世間知らずの娘で恐縮ですが、大人の仕事場で働く心構
えだけは、良く言って聞かせましたので、何分よろしくお願いします」
「そこですね、私がこの度のお話しを佐野さんから伺った時に、よし、このお話しは、何が何
でもお受けしようと決めたのは。私も過去には志を持って修業に行った経験がありますから、お
譲ちゃんの今のお気持ちが少しは解かるつもりです。しかも、それをその若さで思い立ったと伺
って、その意欲的な芽を伸ばすお手伝いをしてみたくなったんですよ・・・言い換えれば私の生
き甲斐が、そちらからやって来てくれたようなものなんですねえ」
「ありがとうございます・・・先日おうかがいした時に拝見した感じでは、人手が足りている
ところに素人が加わって、邪魔になるのではと心配ですが、本人もお役に立てるように頑張ると
申しておりますので、よろしくお願いします」
「はい承知しました。早苗さんでしたね・・・さっちゃんでいいかな。さっちゃん、私もお引
き受けした以上、本気でやりますから厳しいこともいいますよ。頑張って覚えてくださいね」
「はい、がんばります。よろしくお願いします」
「また孫が一人増えたみたいで、嬉しいですねえ」
あの若者がお茶を運んできた。
「ご紹介しておきますね。さっちゃんの先輩で、これから色々教えていただくことになる、頼
もしいお兄さんですから。このお兄さんは近藤一夫さん、二十三歳でしたね。お家は長野市内の
大きな蕎麦屋さんで・・・うちの何倍も大きな蕎麦屋さんですけど、どういうわけか、うちに修
業にみえるようになって早一年。最初は半年だけの修業のはずだったのですが、どうしたことか
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一年経ってしまい、まだもう少ししなさるおつもりらしいです。他のスタッフからはコンちゃん
って呼ばれていますよ。コンちゃん、ちゃんとお世話してあげてくださいね」
「近藤です。よろしくお願いします」
市村が近藤にも三人を紹介した。
長野市出身の近藤は大学在学中に理想の蕎麦を探そうと、全国各地の蕎麦を食べ歩いた。結局、
隣市の鶴屋の蕎麦に出会って感動し、卒業と同時に鶴屋へ修業に入った。
「さっちゃんの修業の期間は一年間で休日は日曜日。お家に帰れるのは土曜の夕方から日曜の
夜までになりますけど、大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
「ところで早速なんですけど、さっちゃんに心がけてほしいことが一つあります。それはこの
町の『杏の里』って呼ばれる森集落で、もう直ぐ杏の花が咲き始めますが、明日から毎日、仕事
が済んだら観に行って来てくださいね。そして杏の木の変化や集落の様子、それから花見客の様
子なんかを私たちに教えてください。そういう観察や感性がこの仕事にはとても大切になります
から。もちろん心にゆとりが出来たら、杏ばかりでなくて、行き帰りに見る千曲川の新緑の様子
や、杏を追いかけて咲き出す桜、そして、その後の桃なんかもね。自転車はここのババチャリを
使えばいいですから」
「・・・はい、分かりました」
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「どんな食べ物もそうかと思いますけど、特に蕎麦は、四季の移ろいや風景を味に映しますか
ら、そういうものを三百六十五日、無意識にでも楽しめるようになってくださいね。きっと、さ
っちゃんの作る蕎麦が美味しくなるはずです。手始めに、杏は持って来いだと思いますよ。蕎麦
の修業と一緒でしばらく忙しいですけど」
「はい、やってみます」
晃と恵子の乗った車は、市村と近藤、そして早苗の三人に見送られて帰路についた。
三人が手を振っている。
振り返った恵子も窓から出した手を振った。
晃はバックミラーに映った早苗に「頑張れよ」と、胸の内で念じた。