弟子入り (4)
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四月二日昼、西の東屋。
「光、お前いくらなんでも食い過ぎじゃないか、腹こんなに膨らんでるぞ」
そう文吉に言われても、光は搗き立ての餅を黙々と食べ続けている。
「こっちの仕事はしなくていいからって言ったのに、結局恵子さは毎日ワサビ畑に来てくれ
て・・・明日の早苗の準備は間に合うのかい?」
「それが拍子抜けするくらいの準備で、さっき早苗が自転車で買ってきた三角巾で全部完了な
の。それ以外のエプロンと前掛けはあったし、着替えなんかの用意も済んだから」
「だから午後は私も手伝えるわよ」 早苗が言った。
「早苗、お前は緊張しないのかい?」 ハルが聞いた。
「めちゃくちゃ緊張してるよ・・・だから何かしてた方が楽なの。じっとしてると胸の中がザ
ワザワして、ワーッて叫びたくなっちゃうもの」
「僕もお腹ん中、ザワザワしてきたよ」
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「光っ、もう止めなさい」 恵子が餅の器を取り上げた。
「あっ、ヒバリ・・・あれ、ヒバリだよねえ?」
早苗が指差した空で一羽のヒバリがホバーリングをしながら、ピチュ、ピチュ、ピチュっと、
せわしくさえずっている。
「おや、ほんとにヒバリだ、こんな人家の上空でさえずるなんて珍しいな。穂高川の川原にで
も住んでるやつかいなあ。・・・この間の早苗に似てるぞ。私を修業に行かせてちょうだい。私で
なきゃ駄目、駄目、駄目って」
「西オジっ。勝手に創作しないでよ」
一同は、さえずり続けるヒバリを見上げていた。
四月三日の午後。長野自動車道の姨捨(おばすて)サービスエリアの展望台に、晃夫婦と早苗
の親子三人が、長野盆地を見下ろして立っていた。
「鶴屋さんのある稲荷山は確かあの辺りだな、約束の時間まで後一時間か・・・早苗、今のご
感想は?」
「お父さん、からかわないでよ・・・もう立っているのもやっとなんだから」
「早苗、本当は私たちの方がドキドキなんだよ。ねえ、お父さん・・・自分のことの方がずっ
と楽よねえ」
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「俺も自分のことでは色々と節目を経験したけど、今の気持ちに比べたら、どんなにか楽だっ
たと思うよ」
「ちょっと二人ともしっかりしてよ・・・二人がそんなじゃ、私どうするの」
「お前にしっかりしてもらうしかないな。お前が頼りだよ」
「あーもうどうしよう、またザワザワしてきちゃった・・・もう、二人とも行くよ。早く近く
に行ってないと気が気じゃないから」
更埴インターで下りた車は国道一八号線を南に向かった。
「七つ目くらいの信号機で杭瀬下(くいせけ)っていう信号を右折して。木の杭に川の瀬、ケ
は下って書くの。けっこう大きな交差点だと思うけど」
助手席の恵子がカーナビを見ながらナビゲーターをしている。
間もなく車は杭瀬下の交差点を右折した。
「うん、これで合ってるみたい・・・このまま行って千曲川を渡ったら間もなくよ」
「まだ三十分ばかりあるな、この先で時間調整できる所ないか?」
「時間調整ねえ・・・じゃあ周囲の環境見物しようか。千曲川まで行ったら橋のたもとを左折
して、堤防道路を走ってみて。それで上流二つ目くらいの橋を渡れば丁度いいんじゃないかしら」
車は橋のたもとで左折して、右岸の堤防道路に入った。
「お、まだ淡いけど千曲川も柳の新緑が始まっているぞ・・・犀川と同じくらいかな」
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「新緑っていいわ、希望の色ね。どんどん春になって行くんだなあ」
「二人とも、のんきでいいわね」
「こういう時だからこそ風景にパワーをもらうんだよ・・・この新緑をよく覚えておけよ。お
前の自立した日の風景だぞ」
「・・・・・」
車は次の平和橋を右に見ながらやり過ごし、その次の冠着橋を渡って千曲川を越えた。
「次のT字路を右折したら、後は多少曲がっているけど道なりよ」
右折してから民家の密集する間をしばらく走ると正面に、武水別神社という社名を掲げた大き
な鳥居と、その背後の森が迫った。そこで道路はわずか左に折れたが、すぐに方向を取り戻し、
神社の脇に沿って長い直線を、ずっと先まで延ばしていた。
「あ、この神社見覚えある。このあいだ来た時、この前通ったわ」
後部座席の早苗が右側に座り直して眺めながら言った。
「よく覚えていたな。タケミズワケ神社っていうんだよ。戦の戦勝を祈願する神社として、昔
から有名な神社だ。寄ったことは無いけど」
「この神社を過ぎたら後は一直線。距離はあるけど鶴屋さんは、ずーっと先の右側」
「早苗、深呼吸三回しろ。ゆっくり深く大きく吸って、ゆっくりゆっくりはくんだぞ」
早苗は言わるままに深呼吸をした。
車は間もなく鶴屋の駐車場に入った。
「さあ、早苗から入るのよ・・・自分の選んだ扉を自分で開けてね」
早苗は一度深く深呼吸をしてから、引き戸に手を掛けた。