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弟子入り (2)

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 「秋に早苗から洋子さんが亡くなったって聞いた後、実は気掛かりで色々調べてみたの。お前
がどんな事故に遭ったのか、どうしても理解しておきたくて。洋子さんのご両親や職場の上司の
方に会って、事件の状況や、洋子さんの生活環境とか生い立ちなんかを色々と伺ったの。ごめん
ね勝手なことして・・・少しでもお前の助けになってやれないものかと、お父さんと二人で分か
ったことを分析してみたんだけど、先ず、早苗が怖かったのは、このまま走っていたら、いつか
自分も洋子さんと同じ様なスパイラルに入って行くんじゃないかっていう恐怖かしら?」
  「・・・うん。私は洋子さんを目標に、同じレールの上を引っ張ってもらいながら追い掛けて
いたのに、突然あんなことになって・・・」
 「そう、それで急ブレーキを掛けてレールから外れたのね・・・ところで聞こえて来るように
なった声だけど、それは洋子さんの声なんかじゃないと思うよ。それは健康な人を閉じ込めてお
いたら、誰にでも起こる、本能の叫びじゃないかしら。早苗、こういうのって思い当たることな
いかなあ、自分の場合でも、誰か知り合いの場合なんかでも・・・憧れている人や個性の強い人
に、何時の間にか話し方や仕草や、思考の方法なんかを真似てるってこと?」
 「・・・うん、あるある」
 「あるでしょう。ここで洋子さんに勉強見てもらっていたころの早苗って、口調や仕草に『あ、


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今のって洋子さんのと似てる』って分かったこと、ちょくちょくあったもの。まあ、これは多か
れ少なかれ誰にでもあることだろうけど、特に早苗の場合は洋子さんに憧れて、彼女みたいにな
るのを目標にしていたくらいだから、何かに頑張ろうとする時には、自然にその習慣に入ってし
まうんじゃないかな。早苗は心に傷を負ってしまったから、それが洋子さんのものと錯覚するけ
ど、他の人にとったら普通の自問自答みたいなものよ」
 「でも、私みたいな経験をしても、心に傷なんか負わない人がほとんどで、私みたいになる人
って一部の特殊な人だけなんでしょ。仮に今の苦しみを抜けられたとしても、将来また似たよう
な状況にはまりやすいとか」
 「早苗、悪くばっかり考えないことね。聞きかじりの知識だけど、事件や事故やストレスで心
が傷つく可能性は誰にでもあるんだって。心が一見無形のものだから傷付かないなんて思ったら
大間違い、身体と同じよ。違うのは傷が一見しただけじゃ見えないってことだけ。だから、心が
傷付いたことをコンプレックスにして隠しておくなんてとんでもない。身体の傷と同じ様に堂々
と一刻も早く治療するべきよ。ただ、身体の傷と違って本人が自覚できない場合もあるから、そ
こが問題だけど、その場合は周りの人たちが助けてあげなくちゃね」
 「あんなに洋子さんが傷付いていたのに、私、ちっとも気付いてやれなかったなあ・・・そん
な程度で大切な友達だと思っていたんだから、私って鈍感で薄情で、情けないね」
 「ほらまた悪い方へ考えようとする。早苗は鈍感で薄情なんかじゃないよ。それは十八年間も
付き合っている私が保証する。私だけじゃないか、親しい人なら誰だって、お前の感性が鋭いの
を知っているわ。だから早苗も傷を負ったのよ。むしろ早苗にさえ気付けなかったところに、洋


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子さんの性格や環境の不運があったと思うの」
 「・・・洋子さんの性格や環境の不運って何?」
 「ご両親や上司の方に伺って分かったんだけど、周りの人は誰一人、彼女の異変に気付いてい
なかったの。あの出来事は彼女以外の誰にとっても、突然の事件だったということね。彼女は人
一倍自立心が強かったけど、それが行き過ぎて不運を招いたみたいね。ご両親とも、中学校の先
生されてるそうだけど、産休以外はお母さんもずっと勤務していたんですって」
 「だったら私も同じでしょ。お母さんだってずっと働いていたんだから?」
 「ぜんぜん違うよ。私のシフトは昼の営業を中心に夜の仕込までだから、私が夜まで働いたの
はピンチヒッターを頼まれた時くらいで、ほとんどは夕方の四時か五時で職場を後に出来たでし
ょ。しかも家と職場が近いし。洋子さんのお母さんの場合は、とてもそんな時間に帰れないから、
幼い頃の彼女と二歳下の弟は、ずっと保育所で夕食を済ませていんだって。しかも彼女が小学三
年で下の子が小学一年になってからは、家で彼女がお母さんの代わりをして、子供達だけで夕食
を済ませながら、ご両親の帰りを待っていたそうよ。もちろん彼女が母親の作るような家庭料理
を作ったわけじゃなくて、テイクアウトの弁当ばかりだったらしいけど。そんなだから、ずいぶ
んしっかりしたお譲ちゃんだって、ご近所でも評判で、ご両親は後ろめたさを感じながらも彼女
を頼りにしたし、彼女も大人たちの期待に応えるのが張り合いだったみたい。彼女のあの強い自
立心は、そういう環境から育ったものだったのね」
 「洋子さん、私にそんなこと、少しも教えてくれなかったなあ」
 「自分の弱いところを誰にも見せない、気付かれないようにする、そこが洋子さんの強さであ


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り、弱点だったのね。彼女はいつも周りの期待に応えるために、普通の子供なら許される甘えを、
精一杯内側に押さえ込んで成長したのね。だから上司の方だって、彼女の心が破れちゃうなんて、
思ってもみなかったって言っていたもの。頭の回転は速いし、今時の新人とは思えないほど使命
感と意志の強い女性で、仕事も手早いから、先輩たちも一目おく程だったって」
 「それじゃ、どうしてあんなことに・・・」
 「ソフトを求められる仕事が苦手だったみたい。新たな企画を考え出す様なソフト面での仕事
で何度かつまづいて、その弱点をカバーするために、他の人が面倒がるような仕事を率先してや
っていたみたいね」
 「そして、どんどん抱え込んだのか・・・あの努力家の洋子さんでも通用しないなんて、実社
会って、やっぱり怖いところなんだね・・・」
 「それは違うよ。洋子さんの身に付けておきたかったものは、勉強や努力で手に入れるものじ
ゃなくて、子供にとって健康な環境で育ちさえすれば、何時の間にか身に付くものじゃないかな。
私の思うのには、実体験が少な過ぎたんだと思う。成長する時に、もっと色んなタイプの人と関
わったり、色んな出来事を体験する環境が必要だったのね・・・私たちの育て方が、あの子の命
を奪ってしまったんだって、ご両親が言っていたけど、今みたいな時代には他人事でない親子は
山ほどいるわね。でも、早苗は大丈夫だと思うよ。こんな衝撃的な出来事に出会って傷付きはし
たけど」
 「どうして私は大丈夫なの?」
 「お前は負けん気は強いくせに、小さい時から甘えん坊で泣き虫だったからね。私に今日は仕


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事に行くなって、すがり付いて困らせたこと何度もあったじゃない。それから例外はあったにし
ても、夕食には私も居たでしょ。しかも、私の居ない時は、渡辺のおばあちゃんやおじいちゃん
に面倒見てもらっていたし」
 「そう言われてみると私ってずいぶん軟弱だったのね」
 「違う違う。本来子供は、甘えたり、泣いたり、我がままを言って、家族や仲間との関わり合
いの中で成長するものなのよ。そうそう、自然も忘れちゃいけないわね。そういう関わりを抜き
に健康な心を育てることは出来ないってこと」
 「・・・そういえば洋子さんが『さっちゃんの心の強さが羨ましい』って言ったことがあった
けど、あれは本心だったのかしら。私は、からかわれているとばかり思ったけど」
 「今だから言えるけど、それはきっと本心ね。色々な関わり合いを、知識としてしか知らなか
った洋子さんの心は、刀に例えれば硬い鋼(はがね)だけで作った刀。早苗の心は、甘えたり泣
いたり驚いたりしながらの実体験で身に付けた柔軟性のある鉄と、負けず嫌いの鋼を併せ持った
刀。その違いを洋子さんは、いつかしら感じていたんでしょうね」
 「知ってる。鋼だけの刀は簡単に折れちゃうのよね」
 「そう。お前には軟弱な不純物もいっぱい入っていて良かったね」
 早苗の横顔に一瞬笑顔が戻った。

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