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弟子入り (1)

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 五郎に鶴屋弟子入りの仲介を頼んだ翌日の夜、夕食が済んでくつろいでいると電話が鳴った。
 「はい、泉でございます・・・あ、五郎さん。昨日は面倒なことをお願いしてごめんなさいね
・・・え、もう聞いてくれたの・・・ちょっと待って、今、本人に代わるから」
 「早苗っ、五郎さんが昨日のこと、もう聞いてくれたんだって。結果は自分で聞いて。それか
ら後でまた電話代わってね」
 恵子は逸る気持ちを抑え、あえて早苗にかわった。
 「・・・もしもし、早苗です・・・はい・・・はい・・・ほんとにっ!・・・はいっ・・・は
いっ・・・ありがとうっ、五郎さんっ・・・はい、頑張ります・・・はい、ありがとうございま
した。ちょっと待って、お母さんと代わるから」
 受話器を渡しながら早苗が叫んだ。
 「OKですってっ!」
 「もしもし私ですっ、今、早苗から聞いたわっ。ありがとう五郎さんっ・・・はい・・・はい、
わかりました。ちょっと待って、お父さんと代わるから」
 「もしもし、引き受けていただけたんだってっ。ありがとうっ・・・うん、ありがとうっ・・・
うん、待って、今メモルから・・・どうぞ・・・うん、えっ、三日から?・・・うん・・・うん・・・
うん、ちょっと待って」
 「鶴屋さんが善は急げで、三日の夕方から来れないかって。早苗、どうする?」
 「行くわっ!」


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 「それも店の二階に住み込みで、ということらしいから・・・準備間に合うか?」
 「大丈夫よ、私の荷物なんて知れたものだもん」
 「もしもし、お待たせ。大丈夫だ。三日の午後四時だよな・・・うん、で五郎は?・・・そう
か、残念だが仕事じゃ仕方ないな。俺たちだけで出掛けて来るよ・・・いいのか、こっちから掛
けなくて・・・そうか、悪いな。で、早苗の持ち物は・・・うん・・・うん、分かった、了解。
ありがとう、助かったよ・・・うん、ありがとう、じゃ」
 「お父さん、良かったね」 恵子が潤んだ目で言った。
 「うん、ほっとしたよ。早苗、良かったな。お前の思いが引き寄せた大きなチャンスだ、大事
にしろよ」
 「・・・ありがとう。お父さん、お母さん」  早苗の目から涙がこぼれた。
 「とりあえず俺は西へ報告してくるよ、えらく心配してたから。鶴屋さんの方には三日に伺う
ということで、五郎の方から正式に電話しておいてくれるそうだ。それから、早苗の持ち物は、
その電話の時に聞くって言ってたから、後でまた電話くれると思うよ」
 晃はヘッドランプを手に外へ出て行った。

 「早苗、良かったね・・・だけど、こんなにあっさり受け入れていただけたからって、気楽に
なっちゃ駄目よ。これから本当の苦労が始まるんだから」


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 「お母さん、私、気楽になんかなれないよ。鶴屋さんに行くの、本当のこと言うと叫びたくな
るほど怖いもの。だけど、じっとしていることにも、もう耐えられない。じっとしてる方がもっ
と怖い。私、前に進むのが怖くて、長い間じっとしていたけど、私の中から『前に行きたい。思
い切り走りたい。もっと元気になりたい』っていう洋子さんの声が聞こえて来るようになって、
私、もうどうしていいか分からなくて。それでもじっとしていたら、その声がひっきりなしに聞
こえるようになって、このままだと、きっと私は気が狂ってしまうと思ったの。どっちも怖いけ
ど、気が狂うなんて絶対耐えられないから、もう思い切って前に行くしかない。今度は自分で選
んだレールを走ってやるって覚悟したの。でも覚悟したはずなのに、実際に出て行こうとすると
気持ちがしぼんでしまって・・・明日こそ、明日こそって繰り返してた時に、お母さんから引越
しの話しを聞いたのよ。だから直ぐに賛成したの。東京で実行するより、気持ちが楽だと思った
から。でも今度は自分のレールがなかなか見付からなくて、新しい目標を見付けるのって、こん
なに大変なんだって思ったわ。自分のしたいことを秋からずっと探していたけど、ちっとも見付
からなかった。それが、鶴屋さんのおばあちゃんに会って、あのおばあちゃんの働く姿を見て、
あの美味しいそばを食べた途端に、これだっ、こういう仕事がしたい、こういう風に生きたい、
って思ったの。それから、こんなに自然に生き生きと生きている人の近くにいれば、きっと生き
方の、進み方の、大切な中心みたいなものが分かるかも知れないと思ったの」
 早苗は長いこと堰き止めていた水門を一気に開いた様に話した。
 「早苗、ごめんね。お母さん、お前のことを一生懸命分かろうとしたつもりだけど、まだちっ
とも分かっていないね・・・いままで怖くて口に出せなかったことだけど、早苗が進む方を選ん
だって分かったから話すね」
 「・・・・・」

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