早苗の自立 (2)
「俺なんか一日一食が蕎麦でもいいものな。蕎麦はいいよ、なあハル」
「ほんとにねえ、私の若い頃なんて、木曽だから一日二食が蕎麦のことだってあったよ・・・
ただ近ごろじゃ蕎麦の方が贅沢品になっちゃたけどねえ」
早苗と光が客間から戻ってきた。
「ねえ今、光と相談して、おひな様に梅の花を飾ってやりたいんだけど、梅の枝少し切っても
いいかなあ」
「梅の花飾ってくれるのかい嬉しいねえ・・・いいさ好きな枝切って飾ってちょうだい。花瓶
はその辺のを適当に使えばいいし、ハサミは水舟んとこのを使えばいいからね」
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「じゃ光、やろう」
「うん、花は僕が切るからね」
「早苗っ、ちょっと待ってっ」
「何、お母さん?」
「今、皆んなで相談してたんだけど、今度やるお店で蕎麦をメニューの柱にするっていうの、
早苗どう思う?」
「蕎麦をやるの?」
「そう、他の料理もするけど、蕎麦をアレンジしたのを看板メニューにしたらどうかと思うの。
信州なんだから、そういうレストランがあってもいいと思わない」
「いいじゃないっ!。私、蕎麦大好きになっちゃったものっ」
「満場一致ね・・・やっぱり蕎麦はアイディアかも」
「僕も蕎麦大好きだよ・・・」
「あっ、光、ごめんごめん」
「だけど僕、この間のおばあちゃんの作る蕎麦が食べたいなあ」
「・・・やっぱりそうなるわよね」
「五郎から頼んでもらおうか。鶴屋で修行させてもらえないかって」 晃が言った。
「鶴屋で修行するの?」 早苗が聞いた。
「そりゃそうさ。あの食感の違いを知っちゃたら、他の店で教わる気になるかい?」
「・・・誰が修行するの?」 再び早苗が聞いた。
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「そりゃあ、恵子に決まってるじゃないか。俺だって包丁は得意だけど、プロとして長年やっ
てきた恵子と比べたら、ママゴトのレベルだよ。理屈を覚えるだけならともかく、実技の習得と
なったら雲泥の差が出ちゃうからな」
「そりゃそうよね・・・お母さんが行くに決まってるよね」
「・・・何だか奥歯に物の挟まったような言い方するなあ。思っていることを言ってみろよ?」
「・・・・・」
「変なやつだなあ・・・お前このあいだのドライブ以来、何か変だぞ」
「早苗・・・まさかお前、自分が修行に行きたいの?」 恵子が聞いた。
「・・・・・」
「おいおい早苗、お前、修行って学校や塾へ行くのと訳が違うんだぞ。受け入れていただいた
店の役に立ちながら、理論や技術を教わるんだから、役に立って当たり前、もし途中で投げ出し
たりしたら、その店に損害を与えることになるんだよ。それも半年とか一年とか限られた期間の
なかで、仕事もしながらしっかり覚えてこなくちゃいけないんだ」
「・・・そのくらい私だって分かってる」
「朝はその店の人より早く起きて掃除をしたり、仕事が終わってからも残って雑用を片付けた
りして、その店の役に立つ代わりに教えてもらえるんだよ」
「分かってる、インターネットでも色々調べたもの」
「でも、お前の料理の経験は、家でお母さんの料理を手伝っていただけだろ」
「お父さん、待って・・・早苗、どうして自分が修行したいって思ったの、それを聞かせて?」
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「このあいだ鶴屋に行って、あのおばあちゃんの働いている姿を見て、あの美味しいそばを食
べた時に、私、分かったような気がしたの、何のために働くのかって。まだ言葉では上手く言え
ないけど、これだって思ったの。このおばあちゃんみたいになりたい、こういう仕事がしたいっ
て・・・それからずっとそのことが頭から離れなくなって、あのおばあちゃんのところで働いて
いる自分のイメージばかり浮かぶようになっちゃったの」
「お父さん、どう思う?」
「・・・ちょっと不安な気もするけど、むしろこれは喜ぶべきことかもな」
「私もそう思う・・・私が料理人だからって、そばを学ぶとなるとゼロからに等しいわ。早苗
だって料理の基本くらいは身に付いてるし、センスも悪くない。後は早苗の考え方次第だと思う
の。受け入れていただけるかも分からない内から、こんな話しは早いかも知れないけど、でも、
伺ってみる前に心構えだけはしておかないと、鶴屋さんにご迷惑を掛けることになりかねないか
ら、あえて言うね。早苗、何を修行するにしても必ず何度も壁にぶつかるわよ。そこで投げ出し
たら、ご好意で受け入れていただく鶴屋さんや、間に立ってもらう五郎さんに、大きな迷惑を掛
けることになるの。それを絶対にしないという覚悟があるなら、早苗に行ってもらうのに賛成す
るわ。自信が無いなら今の内に降りてちょうだい、私が立候補するから」
長年その世界の厳しさに身を置いてきた恵子は、いつになくきっぱりと言った。
「私に行かせて・・・私だって自分の夢中になれることを手に入れたいのよ。絶対に投げ出し
たりしないって約束するから」
「分かった。はたしてどうなるか分からないが、五郎に頼んでみるよ」
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「早苗、よくそこまで考えたわね。お母さん、嬉しいよ」
「そうか、早苗もいつの間にかすっかり大人になっていたんだなあ・・・ついこの間、寝ショ
ンベンで俺の寝巻き濡らした泣き虫が、早いもんだ」 文吉がしみじみと言った。
「やーいっ、おねえちゃんは寝ションベンたれだーっ」
「光、ゆうべ寝ションベンして布団換えさせたのは、誰じゃい」
「・・・・・」
晃が五郎の携帯に電話を掛けた。
そしてその夜、晃と早苗は五郎の家に出掛けていった。
深夜、寝床の中で晃と恵子が、ひそひそと話している。
「お父さん、あれで良かったんだよね・・・心配だけど」
「いや、良かったんだと思うよ。大学へ行かなかったのは今でも惜しいと思うけど、早苗は他
の子より少し早く羽化を迎えたんじゃないかな。ただ思ったんだけど、以前のままの暮らしして
たら受け止めてあげられたかなあって。忙しさに追われている中では、あの子が苦しんでいるの
も、深く考えてるのも知らずに、一般的なレールを強要したように思うな。そしてお互いに分か
り合えないまま溝が深まって、話し合いも出来ない家族になったかも。下手したら、早苗の心だ
って壊れちゃったかも知れないし。そうならずに済んだだけでも俺は胸をなで降ろす気分だよ」
「ほんとうね、あの子が完全に大人になってしまってから、慌てて関わっても手遅れだもの」
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「そうさ、羽化後の羽が広がらないまま固まったり、羽化をしないままで自分を腐らせちゃう
可能性だってあるよな。過保護はいけないと思うけど、関わらないのは最悪だな」
「そうね、子供は放っておいても育つなんていうけど、それは繋がりを感じていられればの話
で、ただのほったらかしじゃあ曲がるか枯れるかしちゃうわね」
「鶴屋さん、受け入れてくれるといいけどな・・・スタッフ足りない風でもなかったし」
「祈る気持ちね・・・せっかく早苗が見付けた夢だから」
「もし断られても、俺が頼みに通ってみるよ」
「そう、お願いね・・・」