早苗の自立 (1)
296
千曲市から長野市へとドライブした翌日からは、いよいよ春の農作業が本格的に始まった。
といっても、東(晃の家)のワサビの植え付けは九月からの予定なので、東のワサビ畑に関し
ての、本格的な作業は夏からだ。他の野良仕事は、畑にゴボーやニンジンを蒔くための準備程度
なので、晃たち夫婦と早苗は、西のワサビ畑で「排水みがき」や「アオミドロ取り」、「雑草取り」
や「こけむき」「花芽摘み」といった仕事を手伝った。
「排水みがき」というのは、カツサビという、金属部が木の葉型のクワのような道具を使って、
排水路に付いたコケや雑草の種を取り除く作業で、これは毎月一回ほどの頻度でする仕事だ。
「アオミドロ取り」は竹ぼうきなどで畝間にできるアオミドロを掃き取る作業で、「こけむき」
は小石などに付着したコケを丹念に手ではがす作業。
「花芽摘み」はワサビの花を三十センチほどの花茎とともに摘む作業で、この花芽は束ねて出
荷する。近年、春の珍味として人気があり需要は高まる一方だ。
いずれも手作業が多く、おまけに中腰での根気のいる作業で、身体泣かせの仕事だ。
297
三月三十日の昼近く、西のワサビ畑。
「おーいっ、お昼だよーだっ」
光がハルのお使いで西のワサビ畑まで呼びに来た。
「おーっ、ご苦労さん、今行くぞーっ」
文吉と晃夫婦、そして早苗が、曲げていた腰に手を当てて伸ばした。
四人とも麦藁帽子をかぶり長靴を履き、恵子と早苗は、腕や手の甲を紫外線から守るために、
手甲(てっこう)をしている。
「お姉ちゃん、西オバがおひな様沢山飾ったよ。僕もお手伝いしたぞ」
「ほんとにっ・・・そうか、ひな祭りだ」(安曇野は一ヶ月遅れでする)
ドライブ以来元気の無かった早苗の顔に、明るさが戻った。
「私、先に行ってる」
早苗は光の尻を追い掛けてパタパタと駆けて行った。
「入学式は確か、五日だったな・・・まだ三十日だから、光も、もうしばらくは羽を伸ばせる
かな」 文吉が言った。
「途中からの仲間入りだから、問題なくとけ込んでくれるといいけれど・・・」
「大丈夫だよ、あいつの性格なら・・・それより早苗、元気無いんじゃないか。あのドライブ
以来、何か様子が変だぞ」 晃が言った。
「ハルも同じことを言ってたが、お前たち何か心当たり無いのか?」
「無いわ。あのドライブの時だって、別にいやな思いをしたわけじゃないし・・・」
「恵子、それとなく聞いてみろよ」
「・・・そうね」
298
「ご馳走様ー。ちょっと食い過ぎたかな・・・この醤油がいけないよ。温かいご飯にこの醤油
だけで一膳終わっちゃう」
「晃、醤油ご飯なんて食べると身体に毒だぞ」 ハルが言った。
「何で毒なんだい?こんなに美味いものが?」
「何でか知らないが、昔からそう言われているんだよ」
「それはきっと美味くて、そればかり食べると醤油が終わっちゃうからだよ。他の醤油じゃ絶
対にそんな風に思わないもの」
「そうかねえ・・・」
「私もこの醤油や味噌食べてると、今まで自分のやっていた濃厚なソースなんか、食べたいと
も思わないもの・・・歳のせいかしら、この間のそばとかシンプルな味が良くなって」
「この間の蕎麦は美味しかったねえ。思い出したら食べたくなっちゃったよ」
「ハル、お前、飯食ったばかりだぞ・・・ボケ始まったか」
「あらやだ、ほんとだね。それでも食べたくなるなんて、絶対五郎に教わらなくちゃ」
「恵子さ、安曇野のレストランなんだから、蕎麦も出したらどうだい・・・そうしたら俺たち
も食べられるし」
「文さは勝手なことを言っちゃいけないだよ・・・恵子さだって修行して、その辺のコックじ
ゃ真似の出来ないような料理の腕があるんだから」
299
「ちょっと待って・・・お店で蕎麦なんて考えてもみなかったけど・・・信州のレストランな
んだから、蕎麦をベースにして色々アレンジしたら、ちょっと無いレストランが出来るかも・・・
ましてベースの蕎麦が本物なら、きっと色んな美味しい料理が考えられるに違いないわっ!」
「恵子っ、それだよそれっ。今までモヤモヤッとしてて見えそうで見えて来なかったもの。他
の店に無い個性的なものでありながら、一般的な味覚からも支持されるような食べ物・・・それ
に、蕎麦なら安曇野の風土にぴったりだ」
「信州で蕎麦なんて一番先に考えなくちゃいけないのにね、どうして考えなかったのかし
ら・・・私、蕎麦をアレンジした料理なら、いくらでも考えられるわ」