スーパーばあちゃんだ (2)
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「いらっしゃいませーっ」
店に入った一同は、歌うような心地良い声に迎えられた。
「お久し振りです、お元気そうで何よりです」 五郎が声の主に挨拶した。
「お久し振りですねえ・・・佐野さんも、お変わりなかったですか?」
「ええ、お陰様で」
「危ないお仕事だから、気を付けてくださいねえ・・・これはこれは、こんな遠くまで皆様で
お出掛けいただき、ありがとうございます。佐野さん、ご紹介いただけますか」
迎えてくれたのは「鶴屋」の女主人の市村富士。淡いピンクのエプロンと三角巾をまとい、歌
うように会話するおばあちゃんだ。五郎は市村と一同を紹介した。
鶴屋は玄関を入ると、左手直ぐのところから奥に向かってカウンター席が一列に並び、右手に
はテーブル席と座敷があって、さらにテーブル席の奥には小上がりもある。
一方、カウンターの左手が調理場で、その先が打ち場になっているが、調理場と打ち場に仕切
りは無く、カウンターから打ち場の様子を眺めることが出来る。
調理場には上下とも白衣を着て、青いバンダナで髪を覆った若い男が一人働いていたが、その
若者は五郎と目が合うと軽く会釈しながら近付いてきた。
「佐野さん、お久しぶりです。相変わらず蕎麦打ちやってるみたいですね」
「やってるって言っても、いつも打つのは一玉か、せいぜい二玉だから、さっぱり上達出来な
くてさ。コンちゃんはどう、すっかり腕上げたんでしょう?」
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「それが、やればやるほど深まる迷路で、一進一退ですよ。ところで、カウンターがいいって
おっしゃるから、カウンターを開けておきましたけど、八人さんには狭いんじゃないですか?」
「いや充分だよ。この人達には市村さんの仕事も見せてあげたいから」
「わかりました。じゃあ、ちょっと狭いかと思いますが、どうぞごゆっくり」
若者はそう言うと、後を市村に任せて調理に戻った。
「おやおや、こんなに可愛いいぼくちゃんまで来ていただいて、おばあちゃん一生懸命作りま
すからね、いっぱい食べてくださいね」
中腰になった市村が光の両肩に触れた。
「僕、蕎麦好きだよ・・・五郎ちゃんの蕎麦、とっても美味しいんだよ」
「そうっ、五郎さんが蕎麦作ってくれたの・・・」
「うん、僕たち東京から引っ越して来たんだよ。だから五郎ちゃんが引越し蕎麦を作ってくれ
たんだ。今まで食べた蕎麦で一番美味しかったよ」
「そう、それは良かったですねえ・・・一番美味しかったですか」
市村が自分のことのように嬉しい顔をした。
「光、あの美味しい蕎麦を教えてくれたのが、このおばあちゃんだよ」 五郎が言った。
「じゃあ、おばあちゃんは、蕎麦が打てるの?」
「打てるなんてもんじゃないよ、すごいんだぞ」
「すごいの・・・」
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「それじゃ佐野さん、皆さんのご注文が決まりましたら、お声を掛けてくださいね」
市村は銘々にお茶を配ると、カウンターの中に入った。
店内には他に二名の女性スタッフがキビキビと働いていた。
すでに他の客からの注文が入ったらしく、市村は大釜の前に立ち、ガスのコックを全開にして、
釜の木蓋を外した。白い蒸気がボワーッと昇り、熱湯が釜の中を上下に回転しながら勢いよく煮
えたぎっている。市村が、蕎麦をハラハラと投入し木蓋をのせると、木蓋と釜縁の間からプシュ
ーッと蒸気が吹き出した。
傍らで白衣の若い男が、二枚の角盆の上に薬味や蕎麦つゆをセットしている。
市村は釜横のアナログ時計の秒針を見詰めていたが、約三十秒過ぎたところで木蓋を外し、柄
付の大きな金ザル(すくいザル)を入れた。すくいザルを入れても、勢いよく沸騰した湯は、釜
の中をグルングルンと上下に回転している。泳ぐ蕎麦を、すくいザルに受け、まとめながらも市
村の目は秒針を見ている。そして投入後、四十秒経過の位置に秒針が達したところで、蕎麦を一
気に引き上げ、すくいザルごと水をたたえた大ボールに、ピシャリッと入れた。水の抵抗で蕎麦
が浮いた瞬間、すくいザルだけをクルリと半回転させて抜き取り、そのすくいザルに、水ごと蕎
麦をザバッとあけた。水を切った蕎麦を再びボールに戻し、そこに蛇口の冷水を落としながらす
すぐ。再び水を切ってボールに戻すと、今度は勢い良く丹念にすすいでから水を切り、セイロに
サラサラと盛りつけた。
「もり二枚あがりましたーっ」
と、若い男が声を掛けると、ホールから来た中年の女性スタッフが運んで行った。
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とても老人とは思えない、リズミカルで流れるような市村の所作に一同は見入っていた。
「注文決めたか?」
という五郎の声に我に返り、一同は注文をまとめた。
先ずは光も含め、全員が「もりそば」だ。
二枚目のそばは「おしぼりそば」が五枚と「くるみそば」が三枚だ。
「はい、先ずは皆さんもりそばですね。いっぺんに茹でられないので、四枚ずつ二度に茹でま
すから、ちょっと時間差が出来ますけど、勘弁してくださいね」
言って背中を見せた市村は直ぐにガスのコックを全開にし、生蕎麦を量った。
よほど高火力の釜らしく、蕎麦を量り終えた時には釜の湯が勢い良く沸騰していた。