FOTOFARM信州

スーパーばあちゃんだ (1)

                                                           283
 三月二十八日.午前九時半。
 水舟で草刈り鎌を研いでいた文吉が、人の近付く気配に気付いて顔を上げた。
 「おはようございます。ちょっと早すぎたかしら」 恵子だった。
 「おはようさん。二人は?」
 「二人はまだ。私だけ先に来ちゃった・・・光は?」
 「光はまだ寝てるよ・・・ゆうべ夜更かしさせちゃったからな」
 「まだ寝てるの」
 「いや、朝飯食べて腹がふくれたら、また寝ちゃったんだ」
 昨夜、光は西へ泊まり、文吉の『お話し』を聞きながら、文吉とハルの間で寝た。文吉の『お
話し』のほとんどは「昔々・・・」から始まるものだったがレパートリーは多く、話し上手なの
で、光は安曇野へ来る度に、それを聞きながら寝るのを楽しみにしていた。
 家の中から機織りの音が聞こえる。
 「西オバ仕事中なの?」
 「仕事じゃないよ、お楽しみ中さ。もう直ぐ忙しくなるから、それまでに終わらせたいんだろ
う。それに今日は遊びに行かなきゃならないし」
 「今年もお蚕様(かいこさま)飼うの?」


                                                           284
 「うん、今年も飼うぞ」
 「ワサビ畑とお蚕様と両方じゃ、休む間も無いわね」
 「なあに、うちで飼うお蚕様の量なんか、商売で飼うんじゃないから知れたものだよ。親父の
代に比べりゃ十分の一さ。ただ最近ハルのやつ、天蚕(てんさん)もやりたいなんて言い出した
から、そんなの始めたら、普通のお蚕様は止めないと無理だな」
 「天蚕て確か緑色のきれいな繭作るのかしら?」
 「そうだよ。天蚕は山蚕(やまこ)ともいうが、こいつが作る緑色の繭(まゆ)は山繭(やま
まゆ)っていって、そりゃあ綺麗な繭だ。その代わり、お蚕様と違って野生の虫だからね、色々
と世話が大変なんだよ」
 「ほんとに西オバは色々するのね」
 「昔からじっとしていることが出来ない性分だな、年中何かしてなきゃ落ち着かないんだ」
 「それは西オジだって同じじゃない」
 「似たもん夫婦ってやつかな」
 「あら、ご馳走様。炭焼はもうお仕舞い?」
 「うん、お仕舞い。俺の炭焼は冬しかやらないから」
 「これから忙しい季節になるものね・・・あっ、いつの間にか梅があんなに咲いてる。もう二
分咲きくらいじゃないかしら」
 客間の前庭で花をつけ始めた梅の木に恵子が気付いた。
 「うん、そんなところだね。今日は天気がいいから夕方には三分咲か四分咲きまでいくかな・・・
皆んなが揃うまで上がっていたらどうだ、身体冷やしちゃいけないに」


                                                           285
 「今朝は表の方が気持ちいいから、縁側で待つ方がいいな」
 「そうだ、ちょっと待ってろ。あったかい凍り餅持ってきてやるから。」
 縁側に腰掛けた恵子は、花を付け始めた梅の木を眺めながら、今日はどんな一日になることや
らと、あれこれ思いをめぐらせた。
 家の中から漏れてくる機織りの音が心地良かった。
 お勝手に行った文吉は、湯呑みに凍り餅を入れ、砂糖を振り掛けて緑茶を注ぎ、スプーンを添
えて持ってくると、
 「今年のは出来が良かったから美味いぞ。俺は光を起こしてくるから、これでも食べてのんび
りしてな」  と言って奥へ引っ込んだ。
 裏手の薮からウグイスの鳴き声が聞こえている。
 恵子はスプーンで少し突ついて、凍り餅が半崩れになったところをすくって食べた。
 淡い甘味の中に、こそっとしたのと、とろっとしたのを同時に楽しむ。
 独特の香りが鼻に抜けた。
 文吉が以前、「この日向臭いのが凍り餅の味わいさ・・・」と言ったのを思い出した。
 この香りは縁側の様な香りだな、と恵子は思った。

 間もなく辰彦が青いワゴンでやって来た。助手席には五郎を乗せている。
 続いて晃も早苗を乗せてやって来た。


                                                           286
 恵子は早苗とともに晃の運転する車に、文吉とハルは、まだ寝ぼけている光を抱えて辰彦達の
車に乗った。目指すは長野市の南隣り、千曲市稲荷山の「鶴屋」だ。
 長野自動車道を使って一時間足らずで行くか、下道の国道四〇三号で筑摩(ちくま)山地の長
閑なうねりの中に山里の村々を辿って行くのか・・・ 満場一致、下道で行くことになった。
 安曇野の東側の、低山ばかりが幾重にも重なる筑摩山地。二台の車は明科町の潮沢川沿いに、
国道四〇三号線で筑摩山地に分け入り、小さな峠を一つ越えて本城村に入った。
 左手に滝上峡の深い谷を見下ろしながら、山の中腹に刻まれた急なカーブを幾つかこなして下
り、前方を横切る長野自動車道をくぐると、西条の集落が現れた。
 古くは東山道、江戸時代には善光寺街道の通っていたところで、ここから先はその街道近くを
走ることになる。低山に囲まれて、曲がりくねったウナギの寝床のような狭い盆地に、幾つかの
集落が連続する。左手の山裾を行く長野自動車道と平行して走ると、間もなく坂北村に入った。
 昔、青柳宿のあった青柳で再び長野自動車道をくぐり、麻績(おみ)川を渡って右に大きく曲
がる。今度は長野自動車道が右手の高台を走っている。麻績村の麻績まで、麻績川を間に挟んで
長野自動車道と並走する。
 麻績の麻績インターを過ぎると、長野自動車道は右手正面の山腹に吸い込まれて消えるが、国
道四〇三号線はそこで左に折れ、聖(ひじり)高原へ向かっての登りとなる。一気に登って小さ
な集落を三つ超えたところでカーブの連続となったが、二十回程も曲がると道路の傾斜は無くな
り、右手に聖湖が現れた。


                                                           287
 さほど大きくもない山上湖を右手に眺めながら、西岸沿いに走る。湖には、その背後にあるピ
ラミッドの様な三峯山の、穏やかな逆三角が映っている。湖の北の端まで行くと道路は下りに差
し掛かった。ここが標高九百六十六メートルの猿ヶ馬場(さるがばんば)峠だ。この峠を下ると
長野盆地で、目指す千曲市稲荷山は峠の直ぐ麓にある。
 つづら折れの急坂をズンズンと、標高差にして約四百メートルほど下る。先ほど別れた長野自
動車道が、筑摩山地の東の端を貫いて、再び右手から近づいて来た。山腹を左に巻きながら長野
自動車道と僅かに並走したところで、四〇三号から右の枝道に外れ、長野自動車道をまたぐと、
観月と棚田で知られた姨捨(おばすて)の棚田の上部に出た。
 眺望の素晴らしさに車を路肩に停め、一同が降りた。棚田の先には長野盆地が超ワイドで横た
わっている。正面には埴科(はにしな)の山地がゆったりと構え、眼下に千曲市、その左手に長
野市、その奥に須坂市、小布施町、そして中野市に至る奥行きの深い長野盆地の市街地が、北信
の山々とともに、その端を霞ませている。右手からやって来た千曲川が眼下を通り過ぎ、左手の
平野に大きな右カーブを描いてから、遥か北の彼方へと向かっている。
 五郎が腕を伸ばして左手を指差した。
 「あの、千曲川が大きく右に曲がるところ・・・あの左手が、これから行く稲荷山の場所だ。
その直ぐ先が古戦場で知られた川中島で、その向こうが長野市街地だよ」

«引越し蕎麦の味 (4) スーパーばあちゃんだ (2)»

当サイトすべてのコンテンツの無断使用を禁じます。
Copyright (C) FOTOFARM信州