スーパーばあちゃんだ (1)
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三月二十八日.午前九時半。
水舟で草刈り鎌を研いでいた文吉が、人の近付く気配に気付いて顔を上げた。
「おはようございます。ちょっと早すぎたかしら」 恵子だった。
「おはようさん。二人は?」
「二人はまだ。私だけ先に来ちゃった・・・光は?」
「光はまだ寝てるよ・・・ゆうべ夜更かしさせちゃったからな」
「まだ寝てるの」
「いや、朝飯食べて腹がふくれたら、また寝ちゃったんだ」
昨夜、光は西へ泊まり、文吉の『お話し』を聞きながら、文吉とハルの間で寝た。文吉の『お
話し』のほとんどは「昔々・・・」から始まるものだったがレパートリーは多く、話し上手なの
で、光は安曇野へ来る度に、それを聞きながら寝るのを楽しみにしていた。
家の中から機織りの音が聞こえる。
「西オバ仕事中なの?」
「仕事じゃないよ、お楽しみ中さ。もう直ぐ忙しくなるから、それまでに終わらせたいんだろ
う。それに今日は遊びに行かなきゃならないし」
「今年もお蚕様(かいこさま)飼うの?」
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「うん、今年も飼うぞ」
「ワサビ畑とお蚕様と両方じゃ、休む間も無いわね」
「なあに、うちで飼うお蚕様の量なんか、商売で飼うんじゃないから知れたものだよ。親父の
代に比べりゃ十分の一さ。ただ最近ハルのやつ、天蚕(てんさん)もやりたいなんて言い出した
から、そんなの始めたら、普通のお蚕様は止めないと無理だな」
「天蚕て確か緑色のきれいな繭作るのかしら?」
「そうだよ。天蚕は山蚕(やまこ)ともいうが、こいつが作る緑色の繭(まゆ)は山繭(やま
まゆ)っていって、そりゃあ綺麗な繭だ。その代わり、お蚕様と違って野生の虫だからね、色々
と世話が大変なんだよ」
「ほんとに西オバは色々するのね」
「昔からじっとしていることが出来ない性分だな、年中何かしてなきゃ落ち着かないんだ」
「それは西オジだって同じじゃない」
「似たもん夫婦ってやつかな」
「あら、ご馳走様。炭焼はもうお仕舞い?」
「うん、お仕舞い。俺の炭焼は冬しかやらないから」
「これから忙しい季節になるものね・・・あっ、いつの間にか梅があんなに咲いてる。もう二
分咲きくらいじゃないかしら」
客間の前庭で花をつけ始めた梅の木に恵子が気付いた。
「うん、そんなところだね。今日は天気がいいから夕方には三分咲か四分咲きまでいくかな・・・
皆んなが揃うまで上がっていたらどうだ、身体冷やしちゃいけないに」
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「今朝は表の方が気持ちいいから、縁側で待つ方がいいな」
「そうだ、ちょっと待ってろ。あったかい凍り餅持ってきてやるから。」
縁側に腰掛けた恵子は、花を付け始めた梅の木を眺めながら、今日はどんな一日になることや
らと、あれこれ思いをめぐらせた。
家の中から漏れてくる機織りの音が心地良かった。
お勝手に行った文吉は、湯呑みに凍り餅を入れ、砂糖を振り掛けて緑茶を注ぎ、スプーンを添
えて持ってくると、
「今年のは出来が良かったから美味いぞ。俺は光を起こしてくるから、これでも食べてのんび
りしてな」 と言って奥へ引っ込んだ。
裏手の薮からウグイスの鳴き声が聞こえている。
恵子はスプーンで少し突ついて、凍り餅が半崩れになったところをすくって食べた。
淡い甘味の中に、こそっとしたのと、とろっとしたのを同時に楽しむ。
独特の香りが鼻に抜けた。
文吉が以前、「この日向臭いのが凍り餅の味わいさ・・・」と言ったのを思い出した。
この香りは縁側の様な香りだな、と恵子は思った。
間もなく辰彦が青いワゴンでやって来た。助手席には五郎を乗せている。
続いて晃も早苗を乗せてやって来た。
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恵子は早苗とともに晃の運転する車に、文吉とハルは、まだ寝ぼけている光を抱えて辰彦達の
車に乗った。目指すは長野市の南隣り、千曲市稲荷山の「鶴屋」だ。
長野自動車道を使って一時間足らずで行くか、下道の国道四〇三号で筑摩(ちくま)山地の長
閑なうねりの中に山里の村々を辿って行くのか・・・ 満場一致、下道で行くことになった。
安曇野の東側の、低山ばかりが幾重にも重なる筑摩山地。二台の車は明科町の潮沢川沿いに、
国道四〇三号線で筑摩山地に分け入り、小さな峠を一つ越えて本城村に入った。
左手に滝上峡の深い谷を見下ろしながら、山の中腹に刻まれた急なカーブを幾つかこなして下
り、前方を横切る長野自動車道をくぐると、西条の集落が現れた。
古くは東山道、江戸時代には善光寺街道の通っていたところで、ここから先はその街道近くを
走ることになる。低山に囲まれて、曲がりくねったウナギの寝床のような狭い盆地に、幾つかの
集落が連続する。左手の山裾を行く長野自動車道と平行して走ると、間もなく坂北村に入った。
昔、青柳宿のあった青柳で再び長野自動車道をくぐり、麻績(おみ)川を渡って右に大きく曲
がる。今度は長野自動車道が右手の高台を走っている。麻績村の麻績まで、麻績川を間に挟んで
長野自動車道と並走する。
麻績の麻績インターを過ぎると、長野自動車道は右手正面の山腹に吸い込まれて消えるが、国
道四〇三号線はそこで左に折れ、聖(ひじり)高原へ向かっての登りとなる。一気に登って小さ
な集落を三つ超えたところでカーブの連続となったが、二十回程も曲がると道路の傾斜は無くな
り、右手に聖湖が現れた。
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さほど大きくもない山上湖を右手に眺めながら、西岸沿いに走る。湖には、その背後にあるピ
ラミッドの様な三峯山の、穏やかな逆三角が映っている。湖の北の端まで行くと道路は下りに差
し掛かった。ここが標高九百六十六メートルの猿ヶ馬場(さるがばんば)峠だ。この峠を下ると
長野盆地で、目指す千曲市稲荷山は峠の直ぐ麓にある。
つづら折れの急坂をズンズンと、標高差にして約四百メートルほど下る。先ほど別れた長野自
動車道が、筑摩山地の東の端を貫いて、再び右手から近づいて来た。山腹を左に巻きながら長野
自動車道と僅かに並走したところで、四〇三号から右の枝道に外れ、長野自動車道をまたぐと、
観月と棚田で知られた姨捨(おばすて)の棚田の上部に出た。
眺望の素晴らしさに車を路肩に停め、一同が降りた。棚田の先には長野盆地が超ワイドで横た
わっている。正面には埴科(はにしな)の山地がゆったりと構え、眼下に千曲市、その左手に長
野市、その奥に須坂市、小布施町、そして中野市に至る奥行きの深い長野盆地の市街地が、北信
の山々とともに、その端を霞ませている。右手からやって来た千曲川が眼下を通り過ぎ、左手の
平野に大きな右カーブを描いてから、遥か北の彼方へと向かっている。
五郎が腕を伸ばして左手を指差した。
「あの、千曲川が大きく右に曲がるところ・・・あの左手が、これから行く稲荷山の場所だ。
その直ぐ先が古戦場で知られた川中島で、その向こうが長野市街地だよ」