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引越し蕎麦の味 (4)

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 「で、いつ行く?」 五郎が聞いた。
 「勝手言って悪いが、うちは早いほど嬉しいな。もうじき忙しくなるから」 文吉が言った。
 「明日は朝から仕事で泊りだから・・・明後日なら十時過ぎ、その翌日なら公休だから何時で
も案内出来るけど、どうする?」
 「俺は明後日の方が嬉しいな。うちの定休日だもの」 辰彦が言った。
 「じゃあ明後日でいいけど、俺は明けで寝不足してるから、辰彦が運転してくれればOKだ」
 「お安い御用だ。車は俺のと晃のと二台でいいんじゃないか」
 近くの薮でウグイスが鳴いた。
 「あっ、ウグイスね」 早苗が言った。
 「今年の初音(はつね)だ・・・忙しくなるなあ、ハル」
 客間の前の梅が二輪開花しているが、まだ誰も気付いていない。



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 その日の午後。
 「えーっ、私と光が一緒なのー・・・」
 「しばらくは我慢してよ・・・他に部屋は無いんだし、お前たちに広い方の八畳をやるんだか
ら。それにほら、お父さんが仕切りのカーテンもつけてくれたのよ」
 「私はどっちを使うの?」
 「光が私たちの部屋に近い方がいいと思うから、早苗が向こう側でどうかしら?」
 「カーテンか・・・光、このカーテン閉まってる時、絶対に入って来ないでよ」
 「入らないよーだ。西オジだって何時でも泊りに来いって言ったもの、西オジは面白いお話し、
いっぱいしてくれるから、僕は西で寝るからね」
 「勝手に入ったら承知しないからな」
 「入らないって言ったじゃないかーっ」
 光が早苗の腹に頭突きをした。
 「イタッ、こいつーっ、許さーんっ」
 二人が取っ組み合いを始めた。
 「二人とも止めなさいって、まだ片付けの途中なんだから」
 「まあ、いいじゃないか。小さな家だが、よそに迷惑が掛かるわけでもないし」
 「・・・ほんと、そう言われればそうね、何か調子狂っちゃうなあ・・・ようしっ、私も参戦だーっ」
 晃は庭に出た。家の中からもれてくる家族の元気な声と、そよ風が心地良かった。
 昔、母屋の建っていた空き地に立つと、家族の声と重なって、若かった頃の両親や自分の姿が


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蘇った。いつかまた昔のような穏やかな空間を、この大切な家族と一緒に、ここに復活してみせ
る、と胸の内で静かに誓った。
 「あなたーっ。先に西へ行ってるわよーっ」
 振り返ると三人が手を上げている。今夜の引越しパーティーの準備ために、どうやら三人揃っ
て西へ行くらしい。
 「分かったーっ。後から行くからーっ」 晃も手を上げた。
 引越しというイベントのせいか、今日の早苗は久々に明るさを取り戻していた。それが晃には
何より嬉しかった。この家族を幸せにするためなら、どんなこともいとわないと思った。
 家に戻りレポート用紙とボールペンを持って再び庭に出た。そして庭から畑、田んぼと巡りな
がら、これから先の段取りを書き連ねた。
 田や畑の畦道を東に向かい、ずっと先の土手を降りて自分のワサビ畑に行くと、また常連のカ
ワセミが、チーッと鳴きながらコバルトブルーの軌跡を見せて飛び去った。ワサビ畑の項目には、
道具小屋作り、植え付け九月から、と書いた。しかし、この荒し畑を整備すると、あのカワセミ
に嫌われることになるな、とも思った。
 そして二本の水路に挟まれた土手を、少し上流の西のワサビ畑に行くと、緑と水のジュウタン
をレースの様に覆って、ワサビの小花が盛りを迎えていた。北アルプスにぼんやりと沈みかかっ
た春の夕陽が、逆光で白花を淡くピンクに染め、畝の間には細い光の帯が幾筋も輝き、時折ライ
ンライトを見せて野鳥や羽虫が飛び交う。
 土手の両脇を、ずっと上流から揺らめきながら流れてきた二本の光のカーペットは、囁(ささや)きか


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けるように穏やかな水音と、柔らかな反射光で晃を包んだ。
 「オフクロ、オヤジ、ただいま・・・」
 心の中で呟きながら、晃は土手を上流に向かってゆっくり歩いて行った。
 築山の手前で右の水路にかかった細い板橋を渡り、道具小屋の脇から踏み跡を辿り、築山の上
に登って穂高川の堤防に出た。
 遥か北北西に目を凝らし、遠見尾根を見つけようとしたが、春霞に霞んで判別することは出来
なかった。
 背後のワサビ畑を越えて、光と早苗らしき黄色い声が僅かに聞こえた。
 振り返って見下ろすと、西の家の左手で二人が手を振っているのが小さく見えた。
 晃も手を振った。
 西の屋根の煙突からは細い煙が流れている。
 背後から水の香りを運んで来た穂高川の川風が、晃と一緒に二人の方へ降りていった。

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