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引越し蕎麦の味 (3)

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 「けっこう大きな鍋だが、この鍋じゃ一人前が限度だ。そばを入れて沸騰が止まるようじゃ美
味いそばは茹でられないからな。何回にも分けて茹でるから、適当に仲良く食べてくれよ」
 五郎が横板を抜かれて空になった水舟の三番槽に大きなボールを置き、外してあった樋を水口
と三番槽に渡すと、勢い良く落下した水が大ボールを満たした。
 ネマガリタケで編んだという、十枚ばかりの蕎麦ザルを二番槽に浸け、ステンレス製で柄付き
の大きなスクイザルを掴むと、五郎は大鍋と水舟の間に立った。
 「じゃあ、茹でるぞ。辰彦、火力を落とすなよ」
 「おうっ、絶好調のグラングランだ」
 五郎は沸騰する湯の流れに乗せてハラハラハラと蕎麦を放つと、直ぐに腕時計を見た。
 大鍋の湯は蕎麦が入ると一瞬沸騰が弱まったものの、直ぐに元通りの勢いを回復した。五郎は
三十秒経ったところで柄付のスクイザルを大鍋に入れた。
 「もう出すのかい?」  心配したハルが聞いた。
 「四十秒で出す」
 沸き立つ湯の中でスクイザルに集められた蕎麦は、四十秒丁度で鍋を出た。


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 「直ぐに次の茹でるから、グラグラさせといてくれ」
 と、言うと五郎はボールに張られた水に蕎麦を放し、優しくフワリフワリと泳がせるとスクイ
ザルで水を切った。それをボールに戻し、新しい水をためながら洗うようにさらす。もう一度水
を切り、再び落とし水の中で勢いよくジャブジャブとさらしてから水を切ると、水舟の蕎麦ザル
を一枚取りピッと振って水を切り、蕎麦を平たく盛り付けた。
 五郎は次々に茹でては、さらした。
 「この蕎麦美味しい、五郎ちゃんの蕎麦美味しいよーっ」
 と、最初に口にした光が言った。
 「たまげたな・・・今まで食べた蕎麦で一番美味いぞ」  文吉がうなるように言った。
 「文さ、こりゃどういうことだい・・・五郎がこんな蕎麦打つなんて、考えてもみなんだいね・・・
わたしゃ、こんな蕎麦なら毎日食べたいよ」
 「こんなに細いのにコシが強くて、噛むとプツンッって切れて、歯ざわりといい咽越しといい
最高。こんな爽やかな蕎麦、初めて食べたわ。早苗、どう思う」
 「今まで食べた蕎麦って何だったのって食感ね、気持ちいい・・・気持ちいい蕎麦なんて私も
初めて」
 「これなら細くても納得だ、このコシなら細い方が美味い。五郎、本当に今まで食べたどこの
蕎麦より美味いよ・・・どこかのそば屋でならともかく、まさか五郎にこんな体験をさせられる
なんて、誰か想像つく?」  晃が皆んなの顔を見た。
 一同が同時に首を横に振った。


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 「何で五郎が?・・・五郎、お前どこかに修行に行ったのか?」 辰彦が聞いた。
 「恋人に教わったんだよ」
 「いつ彼女が出来たんだ?」
 「二年の付き合いになるかな・・・命がけの付き合いだよ」
 「へー、気がつかなかったなあ・・・よくそんな奇特な人がいたもんだ」
 「更埴の人さ」
 「更埴・・・そんな遠くの人とどうやって知り合ったんだ?」
 辰彦が聞き出し役を始めると、一同も興味津々で聞き耳を立てた。
 「以前、前穂での救助終わって上高地まで下りてきたら、人が倒れたっていうんで飛んで行っ
たんだ。その時倒れていたのがその人さ。あまりに良い景色に霧中になって、水分摂るのも忘れ
て歩き回ったらしいんだけど、血液の濃いのが心臓に引っ掛かったんだ。それで救命処置して救
急車呼んでから、その救急車と出会うところまで俺の車で運んだのさ・・・だから命がけって言
ったんだよ」
 「なんだそうか、命の恩人だから、こんな男でも付き合ってくれたのか」
 「何とでも言え」
 「で、その人が蕎麦名人だったのか?」
 「そうさ。江戸時代から続く鶴屋(つるや)っていう蕎麦屋の六代目だ」
 「女主人か?」
 「そうだ。ご主人もいる七十六歳のおばあちゃんだが、女主人だ」


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 「ご主人がいるのにどうして?」
 晃が聞き役に回った。
 「ご主人はずっと以前に脳梗塞で倒れて働けない身体なんだ。それからずっとその人が、蕎麦
打ちも店の切り盛りもやってるんだよ」
 「そりゃ気の毒だなあ」
 「確かに気の毒なんだけど、ぜんぜんそんな風じゃないんだよ。毎朝の蕎麦打ちは一人で全部
やっちゃうし、開店してからだってスイスイだよ。他にもスタッフは三人いるけど、若いもんが
ついていけないくらいさ」
 「スーパーばあちゃんか・・・」
 「そうだ、スーパーばあちゃんだ」
 「教わった五郎でも、こんなに美味い蕎麦を打てるんだから、その人の打つ蕎麦は、さぞかし
美味いんだろうねえ・・・一度その人の店で食べてみたいもんだよ、なあ文さ」
 「そうだな、善光寺参りでも兼ねてドライブするか。お節句過ぎたら(安曇野は一ヶ月遅れ)、
そんなことしている暇は無くなっちゃうからな。五郎、店の場所の地図書いてくれ」
 「おいおい、俺たちだって行ってみたいよ、デートの邪魔して悪いけど。早苗と光も行きたい
よな?」 晃が聞いた。
 「うん、僕もスーパーばあちゃん見に行く」
 「・・・どうしようかなあ・・・」
 「皆んなで行こうや、皆んなの都合のいい日を選んで。俺が案内するから、なっ、さっちゃん」
 「うん・・・」
 五郎が気を利かして強引に誘った。

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