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引越し蕎麦の味 (2)

 両手の指先を粉に差し込んだ五郎は、目を吊り上げ、手早く粉と水をかき混ぜ始めた。
 周りで見物する者にとっては、連発のフラッシュ発光に照らされる手の動きを見るような、素
早い混ぜ方だ。吸水してボソボソしていた粉は、しばらく混ぜ続けるとパサパサになり、やがて
全体が無数の米粒のようなパラパラしたものに変わった。
 「これで美味い蕎麦は約束されたようなものさ」
 言った五郎が、それまでにも増して力強くかき混ぜ続けると、全体が無数のパチンコ玉のよう
な形状になった。。
 「よしよし大成功だ。さて仕上げは『練り』だ」
 五郎は全体を押し潰すようにして一塊にまとめると、下に伸ばした両腕に、上体の重心を掛け
たり抜いたりを繰り返してリズミカルにこね始めた。
 「この辺りまでの手つきは、どうして、なかなか堂に入ったものじゃないか・・・だけど、蕎
麦打ちは、この先からだもんな。この先は、昨日今日触ったくらいで出来るもんじゃないぞ」


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 「西オジ、背中にコケの生えるほど生きてるわりには、見る目が無いなあ。蕎麦打ちは、一鉢、
二延し、三包丁っていうの知らないの。ちょっと見は地味だけど、この鉢仕事で蕎麦の良し悪し
が決まるんだい」
 「お、ウンチクもなかなか名人ぽいでござるぞ」
 「ウンチクで包丁が使えるなら、苦労はないでござる」
 晃と辰彦の野次の中、見た目は滑らかな蕎麦の円盤が出来上がった。
 「さっちゃん、そこの延し板をテーブルに載せてくれるか」
 「延し板だって、あいつ延し板なんか持ってたのか・・・」  辰彦が言った。
 「何だ、ハルのと同じシナベニアじゃないか」  文吉が言った。
 「一応ストッパーも付いてるじゃん」  晃が言った。
 「恵子さ、麺棒くれるか」
 「・・・ごめん五郎ちゃん、私、いつも綿棒持って歩く人じゃないんだけど・・・」
 「・・・・・」
 「恵子、バカ、この麺棒だよ」 晃が三本の麺棒を渡した。
 「あっ、いけなーいっ、私まだ五郎ちゃんが料理作るっての、ぴんときてなくて、ごめーん」
 光以外の全員が、腹を抱えて笑った。
 その麺棒は長いのが二本と少し短いのが一本だった。
 「次は『つぶし』」


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 麺棒をひとまず傍らに置いた五郎は、シナベニアの手前の方に打ち粉を丸く打ち、蕎麦の円盤
を載せた。その上にも打ち粉をすると、右手の掌底(しょうてい)に小刻みに体重をかけて反時
計回りに二周つぶし、円盤を二周りほど大きくした。
 「さあいよいよ延しだが、先ずは『丸出し』から」
 五郎は打ち粉を一打ちすると、短い方の延し棒をグリグリグリグリと押さえつけるように転が
して延し始めた。丸い生地は少しずつ反時計回りに回転させられ、放射状に一周を延し終わると
円盤はさらに二回りほど大きくなり、仕上げにグルングルンと滑らかでダイナミックな転がし方
で全体を整えると、円盤と呼ぶよりは薄い大きな円になった。
 「今度は『四つ出し』だ」
 五郎はその生地を長い方の巻き棒に巻き取り、両手でパタパタと前に転がしては引きつけ、転
がしては引きつけを数回繰り返し、向きを九十度変えて横に解くと、かなり横長の楕円が現れた。
 「ほう、この辺りまでは料理っぽいよな」
 予想外の展開に辰彦が呟いた。
 五郎はもくもくと作業を続けた。横長の楕円を左右に分けるよう、中央を縦に横切って打ち粉
を帯に置き、その帯をセンターにして巻き棒に巻き取った。再び両手で前後にパタパタを数回
やって、今度は斜めにし、左手前から右後方に向かって生地を解くと、現れた生地は大きな四角
に変わっていた。
 「五郎ちゃん、すごいじゃない!・・・」  恵子が驚きの声を発した。
 ハルも自分の長年やってきた田舎風の打ち方と、まったく違う打ち方なので真剣に見ている。


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 「今度は『荒延し』だ」
 短い方の延し棒で四角の全体を手早くざっと延し、さらに手前半分を幾分しっかり延した。手
前を巻き棒に巻き取ると、全体を手前に引き寄せ、奥の残り半分も延した。そこも巻き取ると百
八十度回転させ、解け口を手前にして生地の端を数十センチ程出した。
 「順調順調、いよいよ仕上げの『本延し』だよ」
 延し棒を引き手で転がし、手前に出た生地を丁寧に延してから、延した分を、別の巻き棒で巻
き取った。
 「お、三本棒でやるぞ。これじゃ恵子自慢の綿棒が役に立たない訳だ」
 と、口では茶化しながら、その晃も何時の間にか真剣に見入っている。
 延した分を後の巻き棒で巻き取り、先の巻き棒の生地を一部解いて延す、を繰り返すと、三度
目には先の巻き棒が裸になった。その巻き棒を傍らに除け、末尾も丁寧に仕上げて、後の巻き棒
に全て巻き取る。
 「これで延しはお仕舞いだ。畳んで切れば蕎麦になる」
 「まるで反物の様だねえ・・・」
 丸く打ち上がる自分の打ち方とは、まったく様子の違う仕上がりにハルは興味津々だ。
 「畳めばもっと反物らしくなるよ」
 五郎は生地を折り重ねるたびに打ち粉をかませ、言葉通り反物のようにした。
 「なるほどねえ。これなら蕎麦の長さが全部同じになるよねえ。私のやり方じゃ、短いのが沢
山出来ちゃうけど」


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 五郎は延し板の上に厚い大きな木のマナ板を置き、打ち粉をたっぷり敷いてから生地を横たえ、
生地の上にも打ち粉をたっぷり打って、駒板をその右端に載せた。
 木製の包丁ケースから、一際大きな蕎麦包丁を後生大事に取り出すと、左手の指をキツネ指の
様な格好にして押さえた駒板をガイドに、慎重に切り始めた。素人の包丁なので、けっして速く
はないが、一定のリズムで丁寧に切られた麺線は驚くほど均一で細い。五分の一ほど切り進んだ
ところで一旦包丁を止め、切った蕎麦を、横に寝かせた包丁の包丁表ですくい上げる。それを左
手の先で軽くトントントンと押えながら、まな板の上に落とすと麺線の間が割れて打ち粉がこぼ
れた。そして、その蕎麦の束を優しくフワリと鷲掴みして、フワッフワッフワッと振ると、打ち粉が
こぼれ散って、蕎麦が全貌を現した。五郎は蕎麦の束を、まるで赤ん坊を寝かす様な仕草で
木箱に納めた。数回に分けて全てを切り終え、最後の束を木箱に納めた五郎は、一度肩で
大きく息をした。
 「がさつな五郎のイメージとは似合わない繊細な蕎麦だな。うん、繋がりもいい」
 一本つまんで引っ張ってみながら辰彦が言った。
 「ほんとだ、こんなに細いのに私の打つ蕎麦よりずっと丈夫だよ・・・」
 同様にしたハルがたまげている。
 「だけど、こんなに細いんじゃ、何を食べてるか分からないっていうか、噛んだ時にピシャピ
シャして物足りないんじゃないのかい」  文吉が聞いた。
 「ところが、この蕎麦は違うんだよ。食べれば分かるから、さあさあ、先ずは食べてみてくれ
よ、後は茹でるだけだから。俺が茹でるのと、さらすのをやるから、辰彦、悪いがカマドの番し
て、湯を出来るだけグラグラの沸騰状態にしててくれ」
 「お、おう、まかせとけ」

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