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引越し蕎麦の味 (1)

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 三月二十六日。
 西の土蔵の中に、箪笥を両脇から抱えた晃と辰彦がいた。
 「まだ下ろすなよっ・・・まだまだ・・・よし、ゆっくり・・・はいっ、オーライっと」
 「晃、次の荷は何だ?後に大物は見えなかったが」
 「待ってくれ、聞いて見るから・・・おーいっ、次は何だーっ」
 「電気スタンドって書いた箱が一つだけだーっ、他の小物は自宅で降ろすやつの漏れだからっ
て、恵子さが車へ移したからなーっ」  表で五郎の声がした。
 晃と辰彦が土蔵から出てきて、晃が最後の電気スタンドの入った箱を受け取った。自宅に降ろ
す荷物は先に済ませてきたので、これで引越しの大きな仕事はお仕舞いだ。
 「どうもすいませんでした、私達の仕事にまで手を貸していただいて」
 引越しセンターの若いスタッフが二人、すっかり恐縮して言った。
 「いいんですよ、こいつら他に取り柄が無いから」 五郎が言った。
 それでも二人の青年は余程助かったらしく、何度も頭を下げた。
 間もなく引越しセンターのトラックが帰って行った。
 「他に取り柄が無くて悪かったなあ、お前は何か取り柄でもあるのか?」  辰彦が聞いた。
 「取り柄があるかって・・・その取り柄があるから困っちゃうんだよ。二人とも来てみな」


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 水舟の近くで文吉が簡易カマドで薪を焚き、大鍋に湯を沸かしている。傍らでは、火や水でハ
イになった光が大鍋に近づこうとするのを、早苗がブロックしていた。
 「西オジ、何が始まるんだい?」 辰彦が聞いた。
 「それがなあ、そこの蕎麦打ち名人が、引越し蕎麦を打ってくださるって言うんだよ」
 「西オバかい?」
 「違う、五郎だ」
 「えっ、五郎・・・」
 晃と辰彦は互いに、まさかという顔を見合わせてから五郎を見た。
 「何、二人とも俺が蕎麦打ち名人だったの知らなかった?」 
 五郎が胸を張って聞いた。
 二人が同時に吹き出した。
 「辰彦、たとえどんな蕎麦が出てきても、ありがたく頂かなくちゃいけないぞ。なんせ五郎が
蕎麦を打ってくれるっていうんだからな、五郎が」
 「了解だ。『きしめん』が出てこようが『すいとん』が出てこようが、命がけで食ってやるよ。
まさか、出来合いの蕎麦茹でてから、手を打って手打ち蕎麦、なーんて・・・言いかねないか」
 二人はまた苦しそうに笑った。
 しゃがんで火の面倒をみている文吉も、薄笑いを隠せないでいる。
 「まあいいさ・・・落差が大きいほどインパクトも強いってもんだ。三人とも後でたまげて、
ひっくり返るなよ」


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 五郎はニヤリと笑うと、お勝手の中に向かって声を掛けた。
 「おーいっ、恵子さっ、始めるぞーっ」
 「はいはーいっ、お待たせーっ。今、鉢持って行くからーっ」
 恵子とハルが二人がかりで大きな木鉢を抱えて出てきた。
 「そこのテーブルにのせてくれ・・・西オジ、水舟の一番ケツの舟、空にしてくれるかい。そ
こでさらすから・・・恵子さはテーブルの反対側から鉢を押さえててくれよ」
 「指図だけ聞いてりゃ名人だな」  辰彦が言った。
 「ほう、いっちょ前に前掛けまで持ってきてるぞ」 晃が言った。
 「ギャラリーが多くて緊張するが、そこは腕でカバーするか。この蕎麦粉は奈川の農家から貰
った特別の粉だからな、皆んな心して食えよ・・・じゃ、まずは『粉回し』だ」
 と言って五郎は木鉢に蕎麦粉を入れると、腕まくりした両手で丹念にかき混ぜ、続いて量りに
載せたボールで水を慎重に計量した。
 「流石に名人ともなると、水を量るのにも一グラムにこだわるんだねえ」 と晃。
 「晃、お前は水にうるさいわりに、蕎麦打ちの極意が水の扱いにあるっていうの、知らなかっ
たのかい」
 「流石にファイアーマンは水の扱いにうるさいんだ」 と辰彦。
 「辰彦、そういうこと言ってると、もう一枚お代わり下さいなんて言ってもやらないぞ」
 「一枚全部がのどを通るか心配してるよ」
 「まあいいさ、ほざいておれ・・・さて次は『水回し』だ」
 

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 「五郎、お湯じゃないけど大丈夫なのかい?」 ハルが心配そうに聞いた。
 「ああ、この辺りじゃ普通は熱湯でやるけど、俺のやり方なら水ごねで充分なんだよ」
 「水で繋がるのかねえ・・・」
 木鉢の底に広げた蕎麦粉の中心に、五郎は静かに水を注いだ。
 「さあ、ここからが勝負だ・・・ご一同、話しかけるなよ」

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