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早春賦 (8)

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 「いや、その田舎料理が大切な時代がこれから来るんだよ・・・現代人の食に対する価値観は
異常だもの。冬に夏の野菜やフルーツを有り難がったりして、それじゃ石油を食べている様なも
んだってことに気付く感性も失くしている。なあ、恵子」
 「ほんとね。感性って言えば、松坂牛にフォアグラをのせたり挿んだりして喜ばれる時代だも
の。それが不気味な趣味だと気付いてる人は少ないかも知れない。もっと素材一つ一つの命に敬
意をはらって味わわないと、本当の美味しさは感じられないと思うんだけど・・・」
 「考えてみると、今の人類は家畜化に向かっているのかも知れないね。すっかり自然から離れ
て、規格化されたケージを蟻の巣みたいに積み重ねて住んで、良く管理された環境で管理されて
働き、食物は取りに行かなくても、作らなくても、お金で手に入る。そして運動不足の解消にベ
ルトの上を走ったり、電気の刺激を加えたり・・・こりゃどう見ても家畜だよ。その人に食材の
命を想え、敬意を払えって言っても無理だな。これじゃあ感性が退化するのも当然だ」
 晃はつい先ごろまでの自分自身を思い出し、その自分にぶつけるように言った。
 「感性が退化してるということは、進化を続けたつもりの人類が、いつの間にか退化期に入っ
ているのかも知れないわね・・・あら、郷土料理の話しが、いつの間にか人類の進化論にまで飛
んで・・・ぼた餅の味が落ちちゃうわね、ごめんなさい」
 「いいさ、『ぼた餅』が『おはぎ』になった程度だよ。それに、こう言っちゃなんだが、二十年近く
棚上げにしていた計画だよな。その間に経験できた酸いや甘いは財産じゃないか。そいつを
無駄にしないように、じっくり練り直すのは当然さ」  文吉が言った。


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 「二人はワサビ畑も復活させなきゃいけないし、田んぼや畑の仕事もあるんだから、店のこと
はゆっくり考えた方がいいかも知れないねえ」
 「それに、ワサビ畑は手が掛かるから、店と両立させるのは思っているより難しいかも知れな
いぞ。父さんと母さんが忙し過ぎて、地に足が付かない様な暮らしじゃ、子供達も可哀想だし」
 「・・・うん、分かった。探す答えはたった一つだけなんだし、暮らしながらじっくり見付け
ることにするよ。暫くの間は本当に、やることだらけの大忙しだから」
 「これで東京に帰ったら、いよいよ皆で越して来るんだねえ・・・そうするって電話を晃がく
れてから、長かったような、あっという間だったような・・・今だから言うけど、わたしゃ、と
っくの昔に諦めていたから、なんだか夢のようで」
 と言ってハルが目を潤ませた。
 視線のやり場に困った晃が、伸びをして気まずさをごまかした。
 「ごめんなさいね、長い間心配させて。夢のようって言えば、私も諦めかけていたから本当に
夢みたい。だから、今でも眠るのが怖いのよ・・・目が覚めた時、元に戻ってたらどうしようっ
て。でも、こっちでの暮らしが始まれば、そんな不安は消えちゃうかな。どっちにしても、今度
来る時は、いよいよ私も安曇野の住民。大きな声で『ただいまーっ』って帰って来ますから、末
永くよろしくお願いしますね」
 ハル、文吉、ノリサと、三人それぞれの目に、心を込めた視線を送ってから恵子が頭を下げた。
 ハルの目に溜まっていた涙がこぼれた。ハルは姉さん被りしていた手ぬぐいを外して拭った。


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 「この婆さんは、お茶をたんと飲むせいで涙腺がゆるくていけねえ。ところで、追い帰すよう
でいけないが、そろそろ出発した方がいいんじゃないか?今から出れば、子供達との夕飯にも間
に合うだろうし」
 そう言った文吉の目尻にも光るものがあった。
 晃が庭まで乗り入れた車の後部に、ぼた餅やワサビの花芽、それから恵子の父親の大好物、ひ
ねて酸味の出た野沢菜漬けなど、沢山の土産を皆で積み込んだ。
 晃が車を発進させると、牧までノリサを送って行くために、文吉の軽トラも後に続いた。
 田起こしされ黒々とした田圃、その間のアプローチを行くと、農道への出口のT字路で先回り
したハルが待っていた。車を停めた晃が窓を開けると、ハルは晃の顔を両手の平で挟み、ゴシゴ
シと揉んだ。これは晃が物心付いた頃から別れ際にするハルのクセで、晃は十代になったばかり
の一時期、嫌がったものの、その後はずっとされるがままでいる。
 「おっ、ハクチョウの群れだ」
 改めてハンドルを握った晃が、フロントガラス越しの前方を指差した。
 「えっ、どこ?・・・」
 晃は車から降りると再び南の空を指した。
 恵子も車から降りて、ハルとともに南の青い空に目を凝らした。
 「いたっ!ずいぶん大きな群れじゃない」
 数十羽の白い鳥の群が横並びにひしめき、揺らぎながら近づいて来る。
 状況を察した文吉とノリサも降りて来た。
 ハクチョウの群れが近付くと、その群れは、大きな逆さのV字を前後に二列重ねた、整然とした
編隊を組んいた。


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 「群れが大きくて編隊の形が整っているし、飛行高度も高い。ありゃ北帰行(ほっきこう)だ
な」
 文吉が呟いた。
 「ホッキコウって何なの?」 恵子が聞いた。
 「北に帰って行くってことさ。犀川周辺では毎年千羽近いハクチョウが越冬するけど、春にな
ると、ああした幾つかの群れに分かれて帰って行くんだ。今頃だとすると、あの群れはおそらく
最後の居残り組みかも知れないな。故郷のシベリア目指して数千キロの長旅だが、ルートの途中
途中に滞在しながら、夏までには向こうにたどり着く」
 「シベリアが故郷なの?」
 「うん、こちらで過ごす越冬期間も長いが、どちらが故郷かって言えば間違いなく向こうが故
郷だろうね。向こうに帰ったら六月から七月頃には産卵して、孵化した雛を秋までに親鳥と同じ
大きさくらいまで育てるんだ。そして、その若鶏も連れ、また長旅をして晩秋から初冬にかけて、
こちらへやって来る」
 晃が話している間にハクチョウの群れが真上にやって来て、五人をのけ反らすと、アウッ・・
アウッ・・アウッ・・という犬の鳴き声と似た声が降って来た。ハクチョウは長い首を目一杯前
に突き出し、クチバシの先端で大気を切り裂くようにして進んで行く。
 北に向き直した五人は、青い空に浮き立つ白い鳥の群れが、北の空の彼方に見えなくなるまで
見送っていた。

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