早春賦 (6)
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三月十八日。晃たち夫婦がいったん東京に戻る日だ。
朝食後、墓参りに出掛けて来た二人は、午前十時頃から西のワサビ畑に入り、土産にするため
のワサビの花芽を摘んでいた。この一週間程でワサビ畑の春はずいぶん進み、白い小さな花がす
っかり目立つようになった。
「このぶんだと、後一週間で満開だ」
「そうすると二十五日頃には満開か・・・ワサビって早いのね」
「フクジュソウには負けるが、この辺りでは特に早い花の一つだよ。満開は来月の十日頃まで
で、桜の開花にバトンタッチだ。その後はゆっくり衰えて二十日頃には、およそ終わるかな。
それにしても割り切れないのが、このワサビの花が夏の季語になっていることさ。ワサビそのも
のは春の季語なんだけど」
「それじゃあ、このワサビの花は俳句なんかに使えないってことなの?正式には」
「そういうことになるのかな・・・ただ、山奥の沢にある天然ワサビなら、五月から六月あた
りに咲くんで適合だろうけど」
「でも、そんなワサビの花に出会える人なんて、極、極、僅かな人だけじゃない。それに、こ
こに次ぐワサビ産地の伊豆なんて、もっと早く咲くんでしょ。ということは、ワサビ畑のワサビ
の花は、どれも使えないってことじゃない。こんなに風情があるものを使えないなんて、本当に
割り切れないわね」
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「季語っていえば、俳句の決まりは一句に季語一つだろ。それからすると、ここの自然は割り
切れないことばかりだけどね。満開の桜に雪が降りかかることがあれば、真っ盛りの紅葉に雪が
のることもある」
「そういえば、このあいだ見せてもらったフクジュソウも、雪の中に元気一杯って顔で咲いて
いたわよね」
「だろ。とにかくここでは四季が重なり合いながら移り変わっていくから、いったい何を引き
算したらいいのか、迷ってばかりだよ」
「あなた俳句始めて、どれくらいになるんだっけ?」
「まだ一年弱だよ」
「こっちでの生活が始まったら、私も俳句始めてみようかな・・・」
「そいつはいいねえ・・・だけど俺より才能あったらどうしよう。次々に名句を聞かされたら」
「不思議ね。俳句してみたいなんて考えたことも無かったのに・・・」
「恵子、あれ見てみな、水路の砂のところ」
「何あれ?・・・うなぎの赤ちゃんみたい」
浅い水路の底の細かな砂の集まった上に、丈の長いドジョウのような、ウナギの稚魚のような
魚が数匹群れて、水草のように絡み合っていた。
「あれはギナさ。正式にはスナヤツメって呼ばれる魚だけど、今、産卵しているんだよ。普段
奴らは砂や泥の下に隠れていて、ほとんど姿を見せないんだけど、産卵期にはああやって姿を見
せるんだ。産卵が済むと死んでしまうんだけどね」
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「ふーん、ワサビ畑って色んな生き物がいるのね」
「ジーノなんか、初めて連れてきた時に、うちの荒し畑でイモリ捕まえて、驚いてたよ」
「イモリって私も知らないわ」
「そうか・・・今度捕まえたらあげるよ。驚くほど可愛いぞ」
「ほんとにーっ、イモリか・・・帰ったら図鑑で調べてみようっと」
「・・・・・」
小枝を銜えたトビが頭上を通り過ぎていった。
「ただいまーっ、沢山摘んできたわよーっ」
ワサビの花芽をギッシリ入れた篭を水舟に浸けた恵子が、西のお勝手に入って行った。
「おかえり、花芽はちったあ取れたかね?」
蒸け上がった米をカマドから作業代に移しながら、ハルが聞いた。
「ええ、篭一杯ギッシリ・・・そっちもすごい量ね」
「恵子さの実家にも届けてもらいたいからね、たあんと作らなきゃいけないんだよ」
「じゃあ、私にも作るの手伝わせてよ・・・この小豆も西で作ったの」
「そうだよ」
「何から何まで・・・私に出来るかしら」
「恵子さみたいに腕の立つ人が、何言ってるだね」
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「西オバ教えてね、西オバが頼りだから」
「お安いことさ。私の方こそ、さんざん料理教えてもらったじゃないか」
二人は山の様な蒸し米で、ぼた餅を作り始めた。
「西オジは?軽トラが無いけど」
顔を出した晃が、出来たばかりのぼた餅に手を伸ばしながら聞いた。
「文さは牧のノリサんところに炭運びに行ったよ、もう帰って来る頃だけど・・・ほれ、帰っ
て来た」
庭の方で軽トラの音がした。
山ほどの炭俵を積んだ軽トラは、土蔵の前まで入って柿の木の下に停まった。助手席に誰か乗
っている。西オジと一緒に降りてきたのは、紺のブレザーに紺のズボン、そして紺のチロリアン
ハットをかぶった、背の高い細身の中年男だった。
その男の洋服や帽子は、いつ穴が開くか知れないほどに使い込まれていて、ブレザーの袖とズ
ボンの裾は極端に短かく、それが長い手足と対照的で目立っている。