早春賦 (5)
恵子は翌週もやって来た。
今回は二泊して帰るが、離れの整備を済ませておくのが一番の目的だ。
離れの整備を済ませたら晃も一緒に東京に戻り、二十五日の光の小学校卒業を待ち、そして翌
二十六日には、いよいよ一家揃って安曇野へ移住という手はずになっていた。
しかし、一家が住まいに出来るのは当分の間、八畳と六畳の和室二間だけの離れだ。六畳の隣
に四畳の洗濯場兼洗面所兼脱衣所があり、その隣りに風呂とトイレがある。キッチンが無いのが
辛いが、救いは建物の表裏とも深い軒と縁側が付いていて、雨戸を立てると屋内として利用出来
る。しばらくの間は洗濯場に面した縁側に、シンクやガスコンロ、そして冷蔵庫などを据えて仮
設のキッチンにする。
入り切れない家財道具は、西の土蔵に預けることになった。
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「ユキワリソウ全部咲いてるじゃないっ!。春って、たった一週間でこんなに進むのーっ」
「そうさ、四賀のフクジュソウも、今日辺りから満開に入る頃だよ」
「そうかあ・・・山にはまだあんなに雪があるのに」
「ただ、これから四月にかけて、まれに雪が降ることもあるんだ。あっという間に解けちゃう
けどね。特に四月に入ってからの雪は、風景愛好家にとっては贅沢な一瞬だ・・・農家にとって
はちょっと辛いけど」
「この一週間の間に田起こしも済ませたのね」
「うちは二反歩しかないからな。それに西の二人と、辰彦や五郎が入れ代わり立ち代りやって
来て、手伝ってくれたから、あっけないくらいさ」
「機械も西の借りたんでしょ?」
「生活基盤が落ち着くまでは、余計な買い物をするなって言うんだよ」
「いいのかしら?」
「うん、当分甘えることにするよ。助かるし、頼らないと機嫌悪くなるから」
「こっちでも、何かの役に立てるといいんだけど・・・」
「すでに一つあったよ」
「何?」
「明日は穂高神社の御奉射祭(おびしゃまつり)だけど、その祭りで神職が放った十二本の矢
と、終わった後の大的を見物人が奪い合うんだ。西じゃ、その矢か的の一部を、どうしても欲し
いんだよ」
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「へー、そんな祭があったんだ」
「こじんまりした祭りだけど、五百年以上昔から続いている伝統の祭りさ。本当はもっと古代
からの祭りみたいで、悪魔や悪霊を追い払うのと、矢の当たり具合で年の天候を占ったりするん
だ。養蚕にもご利益があるらしくて、その矢や的を奪い合う助っ人を頼まれたんだよ・・・辰彦
や五郎も引き受けたから、西オジを入れて四人でタッグを組めば、手ぶらで帰ることは無いだろ
うという訳さ」
「面白そうね、私も助太刀しようかしら」
「いいけど怪我するかも知れないぞ・・・」
「ヤバそうだったら逃げるわよ。それに、あなたまだ傷が痛いんじゃないの。怪我のこと西に
内緒にしてるから、断れなかったんでしょう。私と二人で一人前ってもんじゃないかしら」
「痛くはないけど・・・ま、恵子なら睨みも効くし」
「どういう意味よっ」
三月十七日、穂高神社の御奉射祭当日。
午後三時、拝殿で神職による神殿祭の儀が始まった。
拝殿と広場を挟んで向き合う神楽殿の軒下には、直径一、六メートルの白地に墨で三規を描い
た大的が掛けられている。
的の近くには、間もなく始まる弓矢神事で奪い合いに参戦しようとする者が群がり、他の見物
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人がそれを囲むようにして、今が遅しと待っていた。
晃夫婦と文吉、五郎、辰彦の五人も全員が軍手をはめ、的の際の人垣に混じっている。
「五郎ちゃん。御奉射(おびしゃ)のびしゃって変わった読ませかたよね?」
「流鏑馬(やぶさめ)は馬に乗って射るから騎射(きしゃ)だろ・・・これは徒歩で射るから、
歩き射るで歩射(ぶしゃ)さ。ぶしゃが、びしゃに転訛したんだよ・・・室町時代にはその歩き
射ると書いて歩射、その後が歩く社って書いて歩社、次が武士の武に射るって書いて武射、そし
て今の奉射に変わった」
「納得、流石は五郎ちゃんね・・・じゃあ、この的は何のために奪い合うの?」
「この的は薄い割り板を組み合わせた上に紙を張って作ってあるから、力任せに引っ張り合え
ば千切れるんだ。それを持ち帰って神棚に供えたり、玄関に掛けたりすると魔よけになるんだよ。
それと養蚕にもご利益があって、的の破片や矢で作った箸を、蚕(かいこ)の掃き立ての時に使
うと良い繭(まゆ)が出来るっていうことで、養蚕農家は特に欲しがるんだ。だからこの弓矢神事
で使う弓の材も、桑で作るって昔から決まっているんだぜ」
五郎の解説に、恵子ばかりでなく近くの群集も聞き入っている。
「遅いなあ、いつまで祝詞(のりと)あげてるんだ・・・あんなもの適当に、モニョモニョって言って
終わらせても、分かりゃしないのに」
退屈した辰彦がブツブツ言い始めた。
「五郎、最近は大した災難も無く生きてるのか?」 文吉が暇つぶしに聞いた。
「災難かい・・・それが無けりゃいいが、大有りさ。どうして俺ばかりに災難が降り掛かるの
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か、一度宮司さんに御祓いしてもらわなきゃいけないな」
「何があったんだ、聞かせろや」
五郎がいつもの大袈裟な身振り手振りで話し始めた。
「・・・この間、署で着替えてたら、誰かが俺のズボンに何ヶ所も結び目作りやがってさ・・・
解こうとしてたところに救急の出動が掛かったんだよ。しょうがないから白衣とメット(ヘルメ
ット)だけ着けて、下はパンツさ。ズボンは持って救急車の後に乗ったのはいいけど、現場が近
くて直ぐに着いちまった。必死で解いてたらバックドアが開いて、赤ちゃん抱いた女の人が乗り
込んで来たけど、俺がパンツ状態だったもんだから『あっ!すいませーんっ!』て言って慌てて
降りちゃったよ。事は救急だから、追い掛けて『どうぞっ、どうぞ気にしないで直ぐに乗ってく
ださい』って言って、乗り込んでもらったんだよ。だけど、病院に向かう間もズボンは解けない
し、『こいつらが余計なイタズラするもんだから、すいませんねえ』って言って、一緒にいた後輩
の頭殴ってごまかしたけど、いやーっ、恥かしかったなんて・・・あんなに恥かしかったのは生
まれて初めてだったよ」
一際高く太鼓が鳴った。
役員達が出て来て、危険なので、矢道の下になる群集を左右に分けた。
拝殿内の神官は、皆たすき掛けで座って控えている。
前に進み出た宮司が弓を構えた。
「あれは神の矢だから、拾わなくていい」 五郎が教えた。
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宮司は神の矢を、東北の若宮社の方向に放った。
いわれを知らない一部の見物人が拾いに行った。
続いて祢宜(ねぎ)が進み出た。
「祢宜の射るのは殿の矢で、これも拾わなくていい。奪い合うのはその後の十二本だ」
祢宜は殿の矢を、東南の木立の方向に放った。
「さあ、いよいよだぞ・・・」
的の周囲の群衆が中腰で身構えた。
恵子も目を吊り上げて身構えた。
再び宮司が進み出て的に狙いを定め矢を放った。
ドスッ、矢は的の上部で鈍い音を立てたが、矢先が止めてあるので刺さらずに落下した。
落下する矢に沢山の腕が伸びたが、ダントツに伸びた五郎の手が矢を握っていた。
恵子は男達の身体に弾き飛ばされて、的に近づくことさえ出来なかった。
次々に矢は射られ、そのたびに乱闘に近いような奪い合いが繰り広げられた。
あまりの勢いに圧倒された恵子は、男達が取った矢を預かる係りに回った。
五郎の動きは他の男たちとは別格で、その動物的な素早さは、まるでヒョウのようだった。
十一本まで済んだところで結局五郎一人が三本も取り、他の四人は一本も取れなかった。
「なんだよーっ、お前らばかり三本も取ってーっ」
恵子の握った矢に気付いた群集の中からヤジが飛んだ。
「西オジ、何本いるんだい?」 五郎が聞いた。
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「一本あれば充分さ」
「そうか・・・恵子さ、二本くれ」
二本の矢を受け取ると、五郎がヤジの飛んだ方に向かって、
「ほれっ」 と放った。
群集の中で砂煙が舞い上がった。
いよいよ最後の一本だ。
「矢は手に入れたから次は的だ、ぬかるなよ」 五郎が言った。
「クソッ、身軽さじゃあ火消しに負けたが、最後は力で勝負だっ」 辰彦が吠えた。
最後の矢が放たれ、ドスッと音を立てると、群集は強力な磁石に引かれた砂鉄のようになって
一斉に大的に群がり、引きずり下ろした。
もうもうと立ち昇る土煙の中で群集に混じり、激しく身体をぶつけ合い、的を千切り合う四人
の男の顔に、彼らの少年時代の面影を見つけた恵子だった。
「晃、お前ずいぶん身体硬くなったみたいだけど、運動不足か?」
帰りの道で文吉が聞いた。