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早春賦 (4)

 三月ともなると北アルプスの雪解けが始まり、安曇野の大小の河川も雪代で水かさを増して、
力強く流れるようになる。この増水を待っていたかのように、犀川下流の生坂ダム湖で巨大化し
た魚が上り始めるが、そうした魚は狡猾で、暗い間に移動したり、釣りや投網では狙いにくい場
所を知っていて、そうした場所に身を潜ませている。
 果たし合いの場所は穂高川左岸にあった。そこは立ち枯れたヨシの茂みが数十メートルに渡っ
て岸辺を覆っている。その茂みの下は深みになっていて、大きな魚が隠れるにはもってこいの場
所だ。餌にする小魚は多く、また、ヨシ薮が防護柵になって投網で狙われる心配も無い。しかも
釣り師がヨシ薮のどこかを少しでも踏めば、繋がりあい絡み合っているヨシの茎や根が振動を伝
えて、曲者の接近を教えてくれる。また仮に、音も無くヨシ薮に入れたとしても、立ち枯れたヨ
シが邪魔をして竿や仕掛けを操ることは難しい。逆に二十メートルほど離れた対岸は開けた川原
で浅瀬になっているので、そちら側から立ち込んで釣れば竿の操作は容易だが、そんな丸見えの


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位置から餌を入れて食いつくような魚は、チンピラと呼ばれる小魚だけだ。
 すでに仕掛けを付けてある竿を手にした文吉は、ヨシ薮の上流から身を低くして、猫が鳥を狙
う様に極めてゆっくり移動している。
 応援団の辰彦と晃たち夫婦は、文吉に言われた通り、百メートルほど離れた対岸の堤防上から
遠巻きに目を凝らし、固唾をのんで見守っていた。
 夕闇が迫っていたが、文吉の動きは相変わらずで、動いているような、いないような状態を続
けている。
 薄暗い川原のどこかでイカルチドリがピーヨピーヨと淋しそうな声で鳴いた。
 ようやくヨシ薮の際まで辿り着いた文吉はドバミミズを針に掛け、しゃがんだまま流れに乗せ
た。オモリは付いているがハリスを二メートルも垂らし、その先に大きなドバミミズを付けてい
る。リールのラインを繰り出しながらヨシ薮の際を、かなり下の方まで探ったが、敵の反応は無
かった。
 文吉は餌を生きた小魚に換えた。背に針を掛けられた小魚が、不自然な泳ぎ方で水中に消えて
いった。それが僅か数メートルも流れたところでラインが一瞬ぴたりと止まり、直ぐにヨシ薮の
下へ向かってとスーッと動いた。文吉が小さく鋭く合わせてから、立ち上がって構えた。
 ラインが川面を切り裂いて下流に走った。
 夕闇に、ヒョーッという竿鳴りが響くと竿と文吉の身体が一体で、つの字にしなった。
 リールがギュウーッとうなって逆転し、ラインが出て行く。
 かなり下流まで走ったところで、敵は荒っぽいジャンプを立て続けに三回繰り返し、その巨体


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と水飛沫を夕闇の中に青白く光らせた。
 対岸の辰彦がいたたまれずに土手を駆け下りて行った。
 「ホッ」 と、小さく掛け声を発した文吉が、大きく開いた股から川に飛び込んだ。
 文吉は立ち泳ぎとカエル脚を混ぜたような泳ぎ方をしたまま、左手で竿をかかげ、右手はリー
ルのハンドルを握ってラインの張りを微妙に保っていた。
 文吉は直ぐに右岸の浅瀬に達し、ラインを巻きながら下流の魚の方に近づいた。
 それからしばらくは、寄せたり遠ざかったりを繰り返したが、敵はとうとう浅瀬に立ち込んだ
文吉の近くに寄って来た。
 文吉が大きくしなわせた竿を立ててマスに空気を吸わせると、マスの抵抗力は目に見えて衰え
た。文吉は立てた竿を右肩に押し当ててマスを足元に寄せると、軍手をはめている左手の親指を
大マスの口に入れて、下顎をがっちりと掴んだ。
 大マスは水飛沫を上げて左右にバッサンバッサンと跳ねたがペンチのような文吉の指を逃れ
ることは出来ず、直ぐに静かになった。
 「西オジっ、どうだっ、でかかっただろうっ」 辰彦が走り寄った。
 砂利の上に横たわり、辰彦のヘッドランプに照らし出された敵は、スチールヘッドとも呼ばれ
る超大物のニジマスで、銀緑のボディーの両側に、美しい虹色の帯を浮き立たせ、丸いギョロリ
とした目で、いまいましい人間どもを睨み、いかつい口をハクリッ、ハクリッ、とさせている。
 辰彦の後ろから覗いた晃と恵子も、敵の貫禄に圧倒され言葉を失った。
 「俺のこれまでの大物賞で、五本の指に入る超大物だ・・・恵子さ、着替えるから俺のリュッ


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ク貸してくれ。雪代が入ってるからチメタイぞ」
 文吉はリュックを受け取ると、暗くなった川原で着替えた。
 どうやら文吉は、魚が掛かった場合は初めから飛び込むつもりでいたらしい。
 辰彦はマスのエラ蓋の直後と尾びれの付け根をナイフで刺し、血抜きをしながら、このマスは
自分の手には負えない相手だったと、つくづく思った。
 晃が辰彦の車から魚を入れるための発泡スチロールの箱を持って来た。
 「辰彦、その箱は何が入っていた箱だ?」 文吉が聞いた。
 「よく聞いてくれた、寒ブリの入っていたやつさ」
 「気が利いたな、箱の見立ては名人だ。それにしてもでかいなあ、体長は測ってみなきゃ分か
らないが、体高はブリの箱に丁度だもんな。目方(重さ)じゃこれまでの一番かも知れないな」
 「これがほんとにニジマスなの・・・ニジマスってこんなに大きくなれるのね」
 「ここまで育つには何回も修羅場をくぐり抜けていると思うよ。だが、ある大きさを越えると、
ほとんど無敵で他の魚をどんどん食べて大きくなるからな。それにしてもこの尾びれの立派なこ
と、大きくてシャープで。顔もすごいが天然でここまで育ったやつは、尾びれの風格が違う」
 晃が敬意を込めて呟いた。

 大マスの魚拓を取ると、ジョウル(解体する)のは辰彦に任せて文吉は風呂に入った。
 辰彦と晃が体長や重量を測ると、体長は八十二センチ、重量は五、五キロもあり、なんと胃袋
の中からモグラが二匹出てきた。


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「私、ここに暮らせるんなら、普通の日々の繰り返しで充分幸せって思っていたけど、どうや
らこの身内や仲間の中では、何が普通か分からなくなりそうだわ」
翌日、穂高駅の改札口で、嬉しそうな顔でそう言った恵子は、上りの電車に乗った。

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