早春賦 (3)
240
帰路、犀川橋を渡る車の中から犀川を眺めた恵子は、水底の石裏に卵を産み付けている
カジカを想像していた。そしていつかは自分も、そういうところまで見える目を手に入れたいと、
真剣に願った。
晃の携帯が鳴ったので、代わりに恵子が出た。
「はい泉です・・・あら西オジ、なあに?・・・え、今、今は押野(おしの)から安曇橋に差
し掛かるところ・・・ええ、まだだけど・・・だって悪いじゃない・・・はい、・・・はい、分か
りました、そちらにむかいます・・・はい、ありがとう」
「何だって?」
「うん、お昼食べに来いって。辰っちゃんが散らし寿司を山ほど持って来て、食べきれないか
ら助けてくれって」
「何だそうか、丁度良かったじゃないか。腹も空いたし、そば屋にでも行こうかと思っていた
けどグッドタイミングだ」
高瀬川に掛かる安曇橋を渡ると晃はハンドルを左に切った。
もうしばらくタイムスリップしていたかったのに残念、と思った恵子だったが、それも直ぐに
食い気にすり替わっていた。
241
「おう、早かったじゃないか・・・辰彦がこんなに沢山持って来たから助けてくれよ」
おえの間(囲炉裏のある部屋)のちゃぶ台を挟んで文吉と辰彦が掛けていた。ハルはその向こ
うのお勝手で、何かの鍋を火に掛けている。
「こんにちは辰っちゃん。このあいだはとんでもない迷惑をかけて、本当にごめんなさいね」
「恵子さ、こいつの迷惑なんか小学校の時から慣れっこだから、気にするな」
「ごめんね・・・でも、お陰ですっかり別人みたい。今だって、わざわざ雪と福寿草を見るた
めに、四賀村まで行ってきたんだから。本当に感謝してるわ」
「もういいよ・・・それに内緒でやったからって、今も西オジにゲンコツ貰ったとこさ」
「俺はゲンコツなんかしなかったぞ。可愛い辰彦だもの、軽く頭なぜてやっただけじゃないか。
頭出せ、もいっぺんなぜてやるから」
「そ、その手がなぜる手かよ、勘弁してくれよ。それより四賀の福寿草はどうだった、もう咲
いてたか?」
「うん、まだ少ないけど、雪の上に頭を出して咲いてて、良かったわよ」
「そうか、こんど俺もカミサン連れていってやるかな」
「そうよ、菊子さん喜ぶわよ・・・美味しそうな散らし寿司ねえ。これはホッキ貝で、この淡
いピンクは・・・」
「それはホウボウだよ」
「まあ、ホウボウ、大好物!・・・ワサビの花芽ものってるじゃない」
「きのう西オジが持って来てくれたからな。ここのシャリには本ゼリを混ぜといたし、この部
242
分はアクを抜いたフキノトウ混ぜてみた・・・まあ、お好みで食べてみてくれよ」
「わーっ、やっぱり春なんだわ・・・西オバは何を茹でてるの?」
「あれはナズナだ」
「あらナズナ、様子見て来よう」
恵子はお勝手に下りていった。
「それにしても沢山持って来たもんだな。丁度腹空いたなーって思っていたところさ」
「そりゃよかった。それが助っ人代だそうだ」
「何?助っ人代って?」
「それがなあ、辰彦のやつ、とんでもねえ大物を敵に回しちまって、俺に助っ人してくれって
頼みに来たんだよ」
「誰だいその大物って?」
「お前も助っ人するつもりか?」
「いや俺は逃げるけど・・・とにかく誰だいそいつは?」
「穂高川の大物さ」
「分かったっ、魚のことか」
「ほら、四日ばかり前にこの釣り針をノシタそうだ・・・」
「ほうー、こんなにする奴は確かに四十センチオーバーの大物だな」
「違う違う、俺の釣り落とした奴はそんなもんじゃなかったよ・・・何回もジャンプしたから
良く見たが、絶対に六十センチオーバーのニジ(ニジマス)だよ、スチールヘッドさ。体側の虹も
見えたし、幅も太くてブリみたいだった」
243
「ブリねえ・・・西オジどう思う」
「そうさなあ・・・ブリは大袈裟にしても六十センや七十センはあったかもな。ちょっと早い
気もするが、雪代で水かさが増えてきたから、上ってきた大物が付いていたかも知れないな。あ
のヨシ薮の下は大物が入るのに、もってこいだからな。だけど、どうしてそんな大物が、こんな
ヘボの針に掛かったのか、俺にはそれが不思議だ」
辰彦はここ数年来、文吉の弟子のようになって釣り技を磨いていた。
「おーい西オジ、それはないよ」
「馬鹿、冗談を言っているわけじゃないよ。真面目な話しさ・・・あそこはなあ、魚は多いが
この辺りじゃ一番難しいポイントなんだよ。チンピラは食いついてくるけど、大物は絶対に食わ
ないはずだ。お前、落とした後も毎日通っているだろ。俺がこっち岸から眺めてるのも気付かず
に。あんな風に長時間粘っても、まずそいつは食いつかないぞ」
「じゃあ、勿体つけてないで、早く敵を討ってくれよ」
「勿体つけている訳じゃないよ・・・宮本武蔵だって意味もなく遅れて行った訳じゃなかろうて。
今日みたいな晴れた日に大物とやり合うなら、朝夕の薄暗い時に戦った方が有利さ・・・ところで
今までに使った餌は何んだ?」
「つり落とした時がオニチョロ、その後で試したのはヤナギムシ、ガームシ、イクラで全部だ」
「お待たせーっ。せっかくホウボウのアラ貰ったから、出し取って吸い物にしたけど、いい味
でているよーっ・・・恵子さっ、早くおいでっ、いただくよーっ」
244
「はーいっ」
辰彦は皆んなが賑やかに食べている散らし寿司も、福寿草まんじゅうも上の空で付き合い、店
の仕込みを済ませたら、出直して来ると言って帰っていった。
「どれ餌を用意しておくか・・・」
文吉は畑の隅の落ち葉の下からドバミミズを数匹捕まえ、庭の池で数匹の小魚をすくった。