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早春賦 (3)

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 帰路、犀川橋を渡る車の中から犀川を眺めた恵子は、水底の石裏に卵を産み付けている
カジカを想像していた。そしていつかは自分も、そういうところまで見える目を手に入れたいと、
真剣に願った。
 晃の携帯が鳴ったので、代わりに恵子が出た。
 「はい泉です・・・あら西オジ、なあに?・・・え、今、今は押野(おしの)から安曇橋に差
し掛かるところ・・・ええ、まだだけど・・・だって悪いじゃない・・・はい、・・・はい、分か
りました、そちらにむかいます・・・はい、ありがとう」
 「何だって?」
 「うん、お昼食べに来いって。辰っちゃんが散らし寿司を山ほど持って来て、食べきれないか
ら助けてくれって」
 「何だそうか、丁度良かったじゃないか。腹も空いたし、そば屋にでも行こうかと思っていた
けどグッドタイミングだ」
 高瀬川に掛かる安曇橋を渡ると晃はハンドルを左に切った。
 もうしばらくタイムスリップしていたかったのに残念、と思った恵子だったが、それも直ぐに
食い気にすり替わっていた。


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 「おう、早かったじゃないか・・・辰彦がこんなに沢山持って来たから助けてくれよ」
 おえの間(囲炉裏のある部屋)のちゃぶ台を挟んで文吉と辰彦が掛けていた。ハルはその向こ
うのお勝手で、何かの鍋を火に掛けている。
 「こんにちは辰っちゃん。このあいだはとんでもない迷惑をかけて、本当にごめんなさいね」
 「恵子さ、こいつの迷惑なんか小学校の時から慣れっこだから、気にするな」
 「ごめんね・・・でも、お陰ですっかり別人みたい。今だって、わざわざ雪と福寿草を見るた
めに、四賀村まで行ってきたんだから。本当に感謝してるわ」
 「もういいよ・・・それに内緒でやったからって、今も西オジにゲンコツ貰ったとこさ」
 「俺はゲンコツなんかしなかったぞ。可愛い辰彦だもの、軽く頭なぜてやっただけじゃないか。
頭出せ、もいっぺんなぜてやるから」
 「そ、その手がなぜる手かよ、勘弁してくれよ。それより四賀の福寿草はどうだった、もう咲
いてたか?」
 「うん、まだ少ないけど、雪の上に頭を出して咲いてて、良かったわよ」
 「そうか、こんど俺もカミサン連れていってやるかな」
 「そうよ、菊子さん喜ぶわよ・・・美味しそうな散らし寿司ねえ。これはホッキ貝で、この淡
いピンクは・・・」
 「それはホウボウだよ」
 「まあ、ホウボウ、大好物!・・・ワサビの花芽ものってるじゃない」
 「きのう西オジが持って来てくれたからな。ここのシャリには本ゼリを混ぜといたし、この部


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 分はアクを抜いたフキノトウ混ぜてみた・・・まあ、お好みで食べてみてくれよ」
 「わーっ、やっぱり春なんだわ・・・西オバは何を茹でてるの?」
 「あれはナズナだ」
 「あらナズナ、様子見て来よう」
 恵子はお勝手に下りていった。
 「それにしても沢山持って来たもんだな。丁度腹空いたなーって思っていたところさ」
 「そりゃよかった。それが助っ人代だそうだ」
 「何?助っ人代って?」
 「それがなあ、辰彦のやつ、とんでもねえ大物を敵に回しちまって、俺に助っ人してくれって
頼みに来たんだよ」
 「誰だいその大物って?」
 「お前も助っ人するつもりか?」
 「いや俺は逃げるけど・・・とにかく誰だいそいつは?」
 「穂高川の大物さ」
 「分かったっ、魚のことか」
 「ほら、四日ばかり前にこの釣り針をノシタそうだ・・・」
 「ほうー、こんなにする奴は確かに四十センチオーバーの大物だな」
 「違う違う、俺の釣り落とした奴はそんなもんじゃなかったよ・・・何回もジャンプしたから
良く見たが、絶対に六十センチオーバーのニジ(ニジマス)だよ、スチールヘッドさ。体側の虹も
見えたし、幅も太くてブリみたいだった」


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 「ブリねえ・・・西オジどう思う」
 「そうさなあ・・・ブリは大袈裟にしても六十センや七十センはあったかもな。ちょっと早い
気もするが、雪代で水かさが増えてきたから、上ってきた大物が付いていたかも知れないな。あ
のヨシ薮の下は大物が入るのに、もってこいだからな。だけど、どうしてそんな大物が、こんな
ヘボの針に掛かったのか、俺にはそれが不思議だ」
 辰彦はここ数年来、文吉の弟子のようになって釣り技を磨いていた。
 「おーい西オジ、それはないよ」
 「馬鹿、冗談を言っているわけじゃないよ。真面目な話しさ・・・あそこはなあ、魚は多いが
この辺りじゃ一番難しいポイントなんだよ。チンピラは食いついてくるけど、大物は絶対に食わ
ないはずだ。お前、落とした後も毎日通っているだろ。俺がこっち岸から眺めてるのも気付かず
に。あんな風に長時間粘っても、まずそいつは食いつかないぞ」
 「じゃあ、勿体つけてないで、早く敵を討ってくれよ」
 「勿体つけている訳じゃないよ・・・宮本武蔵だって意味もなく遅れて行った訳じゃなかろうて。
今日みたいな晴れた日に大物とやり合うなら、朝夕の薄暗い時に戦った方が有利さ・・・ところで
今までに使った餌は何んだ?」
 「つり落とした時がオニチョロ、その後で試したのはヤナギムシ、ガームシ、イクラで全部だ」
 「お待たせーっ。せっかくホウボウのアラ貰ったから、出し取って吸い物にしたけど、いい味
でているよーっ・・・恵子さっ、早くおいでっ、いただくよーっ」


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 「はーいっ」
 辰彦は皆んなが賑やかに食べている散らし寿司も、福寿草まんじゅうも上の空で付き合い、店
の仕込みを済ませたら、出直して来ると言って帰っていった。
 「どれ餌を用意しておくか・・・」
 文吉は畑の隅の落ち葉の下からドバミミズを数匹捕まえ、庭の池で数匹の小魚をすくった。

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