早春賦 (1)
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「あなた見て、もうオオイヌノフグリが咲いていたわ、ほら」
「ごく普通の雑草だけど、この時期に見るその青は、何だか元気にさせられるよな」
「今朝は霜も降りたし氷点下三度だったのに、もうこんなに沢山咲いているなんて、この花は
見かけが可愛いくせに、本当はずいぶん逞しいのね」
「見かけによらないっていうのが、ぴったりの花だよ。場所によっては二月から咲いている所
もあるよ」
「えーっ、二月なんて真冬じゃない・・・それも春の遅い安曇野で考えられないわ」
「おいおい、だいたい世間では安曇野の春を勘違いしていると思うな。テレビで紹介される時
なんかも、決まり文句みたいに『春の遅い安曇野にも、ようやく花の季節が・・・』みたいに始
まるけど、現実の安曇野の春は二月から始まっているよ、僅かだけどね。そして三月に入ったら
春は確実に始まる。ただここの春の特徴は、始まった春の現象に冬の名残が幾度もかぶるんだよ。
そこがここの春の特徴だし魅力なんだけどね」
「ほんとかなあ・・・どう眺めても、この花以外に春らしいものは感じないんだけどなあ」
「そうか、お前、今までに何度も安曇野に来てるのに、もしかしたら三月に来たのは初めてか
も知れないな」
「・・・一番多く来たのが夏で、後は花がいっぱい咲いてる時期と、高原の紅葉の時期とか・・・
確かに三月みたいに中途半端な時期は初めてだわ」
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「中途半端か・・・本当の季節の醍醐味は変わり目にあり。その中途半端な時期にこそ、あり
なんだぞ」
「そうかなあ、何だかぴんとこないけど」
「よーし、じゃあ今日はそれを体験させてあげよう」
「だって今日は仕事の手伝いに来たはずだったのに・・・私が来たばっかりに、かえって仕事
の手を止めちゃうわね」
「いいさ。お前を安曇野中毒にしておいて、十八年間もおあずけくわした罪滅ぼしだよ。いや、
というより本当は俺も久し振りに、こういう長閑な時間を恵子と持ちたかったって言った方が素
直かな」
「ありがとう・・・長閑がどんなに大切なのか、あなたのお陰で良く分かったわ」
「・・・なんか刺さるなあ」
「ごめんごめん、冗談よ。見て見て、こっちのオオイヌノフグリのところ、ミツバチよ」
「えっ、おーっ、俺の今年の初バチだ・・・あれ、立場逆じゃない」
三月の上旬、安曇野の水郷地帯を散歩中の晃と恵子だ。
遠見尾根から帰宅した晃は脇腹の治療もそこそこに、単身、安曇野に戻った。それからは、実
家の離れ(母屋は老朽化が進み、すでに解体してしまった)に住み、家周りの修繕と、庭や畑の
手入れ、そして、これといった日には撮影を開始していた。
恵子は長年パートで働いていたフランス料理店を一月末に辞めたので、自分の時間は取れるよ
うになったものの、子供たちの世話があって、来たくても来れないでいた。つい一昨日、娘の早
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苗が高校を卒業したので、弟の世話を早苗に頼んで昨夜の列車でやって来たのだ。
恵子は仕事の手伝いに来たつもりでいたのだが、天気が良かったので朝食の時に晃の方から散
歩に誘った。
「恵子、一旦帰るぞ。いいもの見せてやるよ」
「・・・いいものって何?」
「いいから早く帰ろう」
「先に教えなさいよ」
答えずに、晃はさっさと歩き出していた。
晃は家に戻ると庭の片隅を指差した。
「ほら、そこにも春が来てる」
そこには今にも開花しそうなユキワリソウの蕾が並んでいた。
さらにその傍らではスイセンの深緑の葉が、列をなして三センチほどに伸びかかっている。
「ほんとだ見落としていたわ・・・ほんとに春は始まっているのね」
「でも、さっき言ったのはそれのことじゃないんだ・・・車に乗って」
「・・・・・」
晃は恵子を車に乗せると東に向かった。