FOTOFARM信州

早春賦 (1)

                                                           232
 「あなた見て、もうオオイヌノフグリが咲いていたわ、ほら」
 「ごく普通の雑草だけど、この時期に見るその青は、何だか元気にさせられるよな」
 「今朝は霜も降りたし氷点下三度だったのに、もうこんなに沢山咲いているなんて、この花は
見かけが可愛いくせに、本当はずいぶん逞しいのね」
 「見かけによらないっていうのが、ぴったりの花だよ。場所によっては二月から咲いている所
もあるよ」
 「えーっ、二月なんて真冬じゃない・・・それも春の遅い安曇野で考えられないわ」
 「おいおい、だいたい世間では安曇野の春を勘違いしていると思うな。テレビで紹介される時
なんかも、決まり文句みたいに『春の遅い安曇野にも、ようやく花の季節が・・・』みたいに始
まるけど、現実の安曇野の春は二月から始まっているよ、僅かだけどね。そして三月に入ったら
春は確実に始まる。ただここの春の特徴は、始まった春の現象に冬の名残が幾度もかぶるんだよ。
そこがここの春の特徴だし魅力なんだけどね」
 「ほんとかなあ・・・どう眺めても、この花以外に春らしいものは感じないんだけどなあ」
 「そうか、お前、今までに何度も安曇野に来てるのに、もしかしたら三月に来たのは初めてか
も知れないな」
 「・・・一番多く来たのが夏で、後は花がいっぱい咲いてる時期と、高原の紅葉の時期とか・・・
確かに三月みたいに中途半端な時期は初めてだわ」


                                                           233
 「中途半端か・・・本当の季節の醍醐味は変わり目にあり。その中途半端な時期にこそ、あり
なんだぞ」
 「そうかなあ、何だかぴんとこないけど」
 「よーし、じゃあ今日はそれを体験させてあげよう」
 「だって今日は仕事の手伝いに来たはずだったのに・・・私が来たばっかりに、かえって仕事
の手を止めちゃうわね」
 「いいさ。お前を安曇野中毒にしておいて、十八年間もおあずけくわした罪滅ぼしだよ。いや、
というより本当は俺も久し振りに、こういう長閑な時間を恵子と持ちたかったって言った方が素
直かな」
 「ありがとう・・・長閑がどんなに大切なのか、あなたのお陰で良く分かったわ」
 「・・・なんか刺さるなあ」
 「ごめんごめん、冗談よ。見て見て、こっちのオオイヌノフグリのところ、ミツバチよ」
 「えっ、おーっ、俺の今年の初バチだ・・・あれ、立場逆じゃない」
 三月の上旬、安曇野の水郷地帯を散歩中の晃と恵子だ。
 遠見尾根から帰宅した晃は脇腹の治療もそこそこに、単身、安曇野に戻った。それからは、実
家の離れ(母屋は老朽化が進み、すでに解体してしまった)に住み、家周りの修繕と、庭や畑の
手入れ、そして、これといった日には撮影を開始していた。
 恵子は長年パートで働いていたフランス料理店を一月末に辞めたので、自分の時間は取れるよ
うになったものの、子供たちの世話があって、来たくても来れないでいた。つい一昨日、娘の早


                                                           234
苗が高校を卒業したので、弟の世話を早苗に頼んで昨夜の列車でやって来たのだ。
 恵子は仕事の手伝いに来たつもりでいたのだが、天気が良かったので朝食の時に晃の方から散
歩に誘った。
 「恵子、一旦帰るぞ。いいもの見せてやるよ」
 「・・・いいものって何?」
 「いいから早く帰ろう」
 「先に教えなさいよ」
 答えずに、晃はさっさと歩き出していた。

 晃は家に戻ると庭の片隅を指差した。
 「ほら、そこにも春が来てる」
 そこには今にも開花しそうなユキワリソウの蕾が並んでいた。
 さらにその傍らではスイセンの深緑の葉が、列をなして三センチほどに伸びかかっている。
 「ほんとだ見落としていたわ・・・ほんとに春は始まっているのね」
 「でも、さっき言ったのはそれのことじゃないんだ・・・車に乗って」
 「・・・・・」
 晃は恵子を車に乗せると東に向かった。

«フィールドノート (2) 早春賦 (2)»

当サイトすべてのコンテンツの無断使用を禁じます。
Copyright (C) FOTOFARM信州