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フィールドノート (2)

 連絡を済ませ、とにかく一眠りしようとシュラフに手を掛けると、黒くて大ぶりの携帯ノート
がシュラフの脇で、湿った雪にまみれていた。父親が愛用していたフィールドノートだ。ザック
の上蓋の物入れに入れておいたはずが、何かの拍子にファスナーが開き、滑り落ちたようだ。
慌てて拾い上げ、雪を落とし、タオルで念入りに拭った。
 このノートは、ずっと以前に一度だけ全体をチェックしたことがあった。山行記録や撮影データが
事細かに記入されていたが、晃が期待するような内容の書き込みはどこにも無く、唯一、遭難
当日の撮影データが記入されたページに、

 この遭難で大杉君を責めないで下さい。
 三人が出会った時、紀子だけ下山させ、私と大杉君が雪洞を掘って
 ビバークしていれば、間違いなく遭難は避けられた。
 大遠見山山頂の南側直下には、雪洞を掘るのに好適な場所もあったし、


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 その時点では装備も充分持っていた。
 全ては、装備を手放しての全員下山を選択した、私の判断ミスです。
 大勢の皆さんにご迷惑を掛ける結果になってしまい心苦しいです。
 どうかお許し下さい。

 という短いメッセージを見付けただけだった。
 その後も何度か覘いてみようとしたものの、胸にこみ上げて来るものに耐えられず、再度この
ノートを開くことは無かった。だが、それを今回あえて持って来たのは、何だか、このノートが
自分を守ってくれるように思えたからだった。内部の湿った部分にティッシュペーパーを挿む。
裏表紙内側に刻まれた五つのカードホルダーにも次々ティッシュペーパーを差し込んで、滲入し
た水を吸い取った。そして五つ目のホルダーに指を差し入れた晃は、そのポケットの底だけが特
別に深くなっているのと、奥に何か入っているのに気付いた。
 瞬間、胸の中に或る予感が飛び込み、心臓を大きく揺さ振った。晃は慎重に指を差し入れ、中
の物をとりだした。それは折り畳まれた二枚の紙で、メモページから外されたものだということ
は一目で分かった。震える手で開くと、見覚えのある筆跡の文字が並んでいる。一方は晃へ、も
う一方は文吉へと宛名が書かれている。
 予感通り、それは父の遺書だった。

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 晃へ

 母さんを守ってやれなかった。許してくれ。
 母さんを迷子にしちゃいけないから、追い掛けることにする。
 ただ、気に掛かることが一つだけある。
 それは、この事故が原因で、お前の夢が崩れてしまうことだ。
 俺と母さんがこんな形で終わったからといって、自然を怨むなよ。
 水に融けた氷が、水を怨むようなものだから。
 自然と関わって生きることは確かに危険も多い。
 だが、そうやって生きる者にしか得られない大切なものを、
 自然は山ほど与えてくれる。
 俺はもう一度生まれ変わったとしても、間違いなく自然に寄り添って
 暮らすし、おそらく母さんも、そうすると思う。
 晃、お前には小さい時から人一倍の感性があった。
 その感性と自然との関わりは、きっとお前の未来を充実したものに
 してくれると思って、俺はいつも見ていた。
 二十三年間、自然がお前に与えてくれたものを大切にして、
 どうか自然との関わりを捨てないでほしい。
 それと頼みたいことが一つある。
 もし、フィルムを回収したなら、すぐに現像してくれ。


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 きっと、お前も驚くような大作が撮れているはずだから。
 お前と恵子さの夢の先に付き合えないのが悔しいが、
 母さんと一緒に二人の幸せを、いつも祈り続けているからな。
 困った時は西の二人を頼れよ。
 きっと力になってくれるから。
 晃、恵子さを幸せにしてやれよ。
 それじゃ、俺は母さんを連れて帰る。
                          父より

 溢れる涙で文字が滲んだが、晃は父の一言一言を噛みしめる様に幾度も読み返した。
 半ば放心状態でシュラフの上に座り込んでいた晃だったが、やがて陽光に誘われたのか、ほと
んど無意識に腰を上げた。雪洞から外に一歩踏み出したところで、上下からの強力な陽光に包ま
れて目が眩み、入口に散乱した雪ブロックにつまづいて、前のめりに倒れた。
 脇腹の傷から激痛が走ったが、極度の刺激を繰り返し受け続けた彼の心は、それを無視した。
それどころか晃は起き上がろうともせず、十八年振りの懐かしい雪の香りを存分に味わっていた。
雪面に口をつけ、雪を口に含むと再び涙が溢れ出した。
 顔を起こすと目前の雪の結晶が、涙で滲んで無数の虹の玉となって輝いた。虹の玉がキラキラ
と輝くのに、ぼんやり見入っていると、虹の玉の一つに父母の笑顔が見えた。二人の笑顔はしば
らく見えていたが、涙が乾くのにつれて虹の玉とともに消え、目の焦点はその先へと移った。


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 そこには眼下から、ずっと向こうに下って行く大川沢の峡谷があった。右手の北アルプス連山
の裾と、左手の低山群の裾との間を大川沢は、左右から降りてくる多くの尾根の末端に阻まれ、
繰り返し曲げられながらも一途に南を目指していた。
 そしてその遥か先に安曇野が見えた。

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