フィールドノート (1)
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晃はシュラフの上に座ると携帯を取り出した。
一度の呼び出し音で恵子が出た。
「はいっ、泉です・・・」
「恵子、おはよう。実はねえ・・・」
「よかったーっ!・・・無事でいてくれたのね・・・」
と、恵子は身体の空気が抜けてゆく様な声で言った。
「やっぱり、昨日登ったの知っていたのか」
「・・・・・」
「心配掛けたな・・・もう天候も回復したから大丈夫だよ」
「だけど、雪の上を滑って下るんでしょ・・・あなた大丈夫なの?」
晃はハッとして周りを眺め回した。
「・・・恵子・・・俺、今どこに居ると思う。雪洞の中だよ、雪洞っ・・・なんともないよ・・・
雪に囲まれているのに、ぜんぜん平気だっ・・・治ったっ、治ったよっ、おーいっ、治ってるよ
ーっ」
「・・・・・」
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恵子は受話機を持ったまま、腰が抜けたように床にへたり込んだ。
「もしもーしっ、恵子っ、治ったぞーっ、おーいっ、治ったーっ」
「・・・・・」
恵子は返事をしたが声にならなかった。身体中が喜びに震え、涙がとめどなくあふれた。
電話を切った後も、恵子は床にへたり込んだまま、手にした受話機をじっと見詰めていた。
滴り落ちた涙が受話機を濡らした。顔を上げると、頬をつたわった涙が唇を濡らした。
恵子はその涙を口に含んで味わった。一生忘れられない涙の味を確かめるように味わった。
二人の頭上には十八年ぶりの澄んだ青空が広がっていた。
晃は続いて五郎の携帯に掛けた。
「もしもーしっ、俺だっ」
「おーっ!、無事だったかーっ・・・」
その声は辰彦の声だった。
「なんだ、辰彦もそこに居たのか・・・」
「さんざん心配掛けておいて、なんだとはなんだ。それに、ここは五郎の家じゃなくて、下の
エスカルプラザだよ。今だから言うが、昨夜はここの仮眠室に泊まったんだ」
ゴンドラの里駅「とおみ駅」の直ぐ近くにある「エスカルプラザ」は、レンタルスキーやレス
トランをはじめ、仮眠室や風呂なども備えている。
「・・・面倒掛けたな・・・ありがとう」
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「何がありがとうだ・・・似合わないこと言ってないで早く下りて来いよ。帰ったら今夜は徹
底的に飲むからな、覚悟して下りて来いよっ」
晃がその返事をしない内に電話の相手が五郎に代わっていた。
「おい晃っ。昨夜(ゆうべ)はお前のお陰で飲みそこなったぞ。今夜は辰彦と二人して、じっくり可愛が
ってやるから、楽しみにして下りて来いよ」
「分かったよ、俺のおごりだ」
「馬鹿、当然だ・・・ところで、例の病気はどうなった」
「俺は今、雪洞の中に座っているよ・・・ゴーグルもしていないし、空気も美味い」
「!!治ったのかっ」
「治ったっ、お前らのお陰で治ったんだよっ」
電話の向こうで五郎と辰彦のお祭り騒ぎがひとしきり聞こえてくる。
それが止むと、電話の相手が再び辰彦に代わっていた。
「晃、・・・怪我はしてないだろうな」
「・・・情けないが肋骨を二本ばかり折ったみたいだ。いやっ、行動出来ないほどのダメージ
じゃないから心配しないでくれ。折り所が良かったみたいだから」
「馬鹿っ!それを先に言えっ。直ぐに行くから動き回るんじゃないぞっ」
「いや、荷物をこの雪洞にデポッて空身で下るから心配するな。五郎とゲレンデスキーでもし
ててくれよ」
「駄目だっ。お前の我がままは一生分を昨日で締め切ったからな。今度は大人しく、こっちの
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言うことを聞いてもらう番だ。それに天候も雪質も、今日のコンディションで来るなと言うほう
が酷だよ。頼まれなくても、そろそろ登って行こうかと思っていたところさ。じゃあ、俺たちが
着くまで余計なことをしないで寝ているんだぞ」
辰彦はそこまで言うと、さっさと携帯を切った。