雪嵐 (9)
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だが、外が明るくなり、ヘッドランプが不要になっても嵐は一向に衰える気配がない。
予報では朝のうちに回復するはずなんだが・・・頼むから一分一秒でも早く回復してくれ・・・
胸の中で幾度も祈った。
テントの下に雪が吹き込んでいるらしく、床が不自然に盛り上がり始めた。どうやら外張りの
スカートに載せた雪ブロックは、全て風に排除されてしまったらしい・・・おそらく防風壁も削
り飛ばされて無いものと思われる。
と、突然、ガクンッという衝撃とともに、テント後部左のコーナーが上下に激しく震動し、押え
にのせている左足を跳ね上げた。
「くそっ、左のアンカーが抜かれたか、張り綱が切れたか・・・おそらくアンカーだろう・・・
さらに一本か二本、後方のアンカーを抜かれたら、テントが雪上から剥がされてしまう・・・」
晃は大急ぎでザックをテントの左後部に押し付けて加重すると、入口のファスナーを開け、さ
らに、固く縛って閉じてある外張りの入口の紐を解いた。
いざという時の命綱にするため、張り綱に留めておいた非常用ザイルの端を外してテント内に
引き込み、そのザイルを腰に巻き付けて結ぶと、雪スコの柄に結んでおいた細引きの端を、
腰に巻いたザイルにカラビナで留めた。
張り綱を失った左のコーナーが、今にもザックを跳ね除けそうな勢いで振動している。それを
横目で睨みながら履物を山靴に替え、ゴーグルを掛け、雪スコを掴んで猛吹雪の中に這い出した。
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振り返ると、激流の様な雪がパーカーやゴーグルに打ちつけ、バシバシと音を立てた。
滲む視界の中でも、外の様子が一変しているのは分かった。外張りのスカートを抑えた
雪ブロックや防風壁は跡形も無く飛ばされ、それどころか、一メートルも掘り下げたはずの
周囲との落差まで無くなり、雪面にむき出しのテントが、しがみついているだけの状態に
なってる。
猛烈な風圧で、とても立っていられる状態ではない。顔を伏せ、頭を突き出し、身を低くして
後方に行こうとしたが、あっけなく風に両肩を起こされた。胸に風を受けたのを感じた瞬間、後
ろに飛ばされたが、ビンッと張ったザイルに救われた。吹雪の中というより、まるで激流の中に
ザイル一本で留まっている様だ。
腹這いになり、両手でザイルを掴んで再びテント後方に向かう。と、突然、後頭部を何かで強
烈に打ち付けられた。目が眩む激痛に一瞬、グッとうなっただけで声も出せない。だが、痛みを
癒す間は無い。痛みを噛み殺し、何が起こったのか確認するために顔を上げた。その顔面めがけ
て何かの塊が振り下ろされた。晃は寸でのところでその一撃をかわした。
その物体はアンカーだった。風に引き抜かれたアンカーが、張り綱の先に結ばれたまま、
強風に振り回されて凶器と化していた。
さらにアンカーは襲い掛かったが、身体を左右にひねって辛うじてかわした。
幾度か繰り返すうち、彼の肩をかすめたアンカーが雪面に突き刺さり、一瞬静止し、彼はそれを
必死の素早さで押さえつけた。
あれほど深く埋設したのに抜かれるとは・・・晃はそのアンカーを再び埋設することにした。
ザイルを頼りにテントの左手後方まで行くと、引きずってきた雪スコを使い、アンカーのあった
場所を掘り直した。だが、腹這いの状態で力が入らないのと、掘る端から強風が穴を埋めてしま
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い一向にはかどらない。このままでは他のアンカーも何時まで持つか知れない・・・後手に回る
前に決断しなくては・・・よし、テントを捨てよう。
抜けたアンカーの修復を諦め、大急ぎでテント内に戻った晃が、ザックを背負おうとして引き
寄せると、再び後方で強い衝撃が起きてテントが著しく変形した。後方のセンターを繋ぎ止めて
いたアンカーも抜けたのだ。急場の重石にと置いたザックを退けたので、下に潜り込んだ風が雪
面からテントを剥がしに掛かっていた。つい先刻まで彼を風雪から守り、あれ程頼りになった相
棒のテントが豹変し、今にも襲い掛かろうとしている。
一秒でも早く脱出しなくてはならないが、装備を全て詰めたザックを放棄するわけにはいかな
い。総毛立つ思いでザックを背負い、左右のショルダーストラップを結ぶチェストアジャスター
の留具をカチッと掛けたのと同時に、右後部のアンカーも抜けた。後部のアンカーを全て失った
テントはひとたまりもなく宙に浮いた。風がテントの後方を一気にめくり上げると両側面のアン
カーも次々に抜かれ、テントが宙に舞った。テントは前方だけに残った三ヶ所のアンカーを支点
にして、晃を呑み込んだまま空中で裏返り、彼を堅い雪面に激しく叩きつけた。
身体中の空気が飛び出す様な衝撃を受け、一瞬遅れて右脇腹に電流を流された様な激痛が走っ
た。どうやら雪スコの柄の上に脇腹を打ちつけてしまったようだ。横倒しでテントに包まれたま
まの晃は、ザイルが自分を確保していることを手探りで確かめた。この命綱が無かったら、今頃
自分はテントもろとも飛ばされて、大川沢に滑落していただろうと思った。
辛うじて仰向けになった晃は、そのザイルに身を預けたまま両手のグローブを外し、首から下
げていたナイフの刃を起こした。そして、自分を包んだテント生地に突き立てて切り裂き、風雪
の中に上半身を出した。
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テントはまだ、下半身とザイルに絡み付いている。切り離そうとするが、風をはらんだテント
は気の狂った猛獣の様に暴れて晃を振り回した。下半身と一緒に巻き込まれている雪スコが作業
を複雑にして手こずらせるが、雪スコを手放すことは出来ない。ナイフの切っ先で左手の甲を傷
つけながらも、晃は果敢に、そして粘り強く作業を進め、先ず、下半身と雪スコをテントから開
放した。雪スコが再び絡むのを避けるため、雪スコを両腕と股の間で抱くようにして作業を続け
る。ザイルに巻きついた部分はザイルを傷つけないよう、慎重に少しずつ切った。もう一息とい
うところでテントは、自らを裂きザイルを離れた。引っ掛かりを失ったテントはバウンッという
音を残し、一瞬にして白い闇の中に吸い込まれた。