雪嵐 (7)
どれくらい経ったか、異常に高まった風の音とテント生地のバタつきに目が覚めた。時刻を確
かめると午後十時少し前だ。
風向きは一定でなく、後方と左右からランダムに吹きつけてくる。
風が大きく巻きながら吹いているらしく、まるで誰かが外にいて、あちこちの張り綱を引っ張
っているようだ。
テント内の体感温度がかなり下がった。
大黒沢の方で谷が吠えた。
その余韻が徐々に増幅しながら近づき、一瞬、無音になったと思った直後に後方から、グワー
ッっとばかり強風が畳みかけてきた。
後部のテント生地が、シュラフに入って仰向けに寝ていた晃の顔面に迫り、その両サイドの支
柱の入っている部分が、巨大なマグロを掛けたロッドの様にたわんで振動した。さらに風は上か
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ら踏みつける様に幾度もテントをひしゃげさせ、去って行った。
雪面を深く掘り下げて設営し、さらに頑丈な防風壁まで築いたのに、これほどあっけなく揉ま
れてしまうとは・・・横からばかりでなく上からも、のしかかる様に襲ってきた突風に晃は恐怖
を覚えた。
また谷が吠えた。
このままだと支柱を折られてしまうかも知れない。テントを守らなくては・・・シュラフから
飛び出し、風音に背中を向けて座った姿勢で待機する。
グォグォグォグォグォ・・・グワーッーーー
のしかかってきた後部のテント生地を背中で支え、両サイドの支柱は両腕でバックハンドに支
えた。しかし、一気に背中にのしかかった凶暴な力は、予想をはるかに超えた圧力で彼を前のめ
りに踏みつけたため、肺や腹の空気がギュッと音を立てた。
晃は万一に備えることにした。先ず、辺りに出してあった装備を全てザックに戻した。次にナイフ
を取り出すと柄尻に付いたリングに、細引きで輪にした紐を通し、首に掛けた。、頭部は顔面
も保温するために目出し帽を被り、その上にヒマラヤンキャップを被る。手にはフリースのグロ
ーブとゴアテックスのオーバーグローブを二重にはめ、オーバーグローブの紐に付いた留具を、
パーカーの袖に付いた留具に掛けた。
風は山や谷を吠えさせては、繰り返し押し寄せてきた。
携帯が鳴った。相手は五郎だ。
「大丈夫か?・・・里でもかなりの風が吹いてるぞ」
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「おおっ大丈夫だーっ・・・今、真っ最中で手が放せなーいっ」
「分かったっ、とにかく無事に帰ってこいよっ」
それだけ言うと、五郎は電話を切った。
五郎の隣りでは、身体に毛布を巻きつけた辰彦が寝息を立てていた。
自宅の恵子も眠れない夜をおくっていた。
出発の日の夕刻、出掛ける夫を駐車場まで見送りに行くと、
「恵子には心配させて悪いが、今回は山を下りる時まで携帯掛けないからな。逃げて帰りたく
なったらいけないから・・・大丈夫、天気の流れと相談して、安全な時を選んで登るよ」
晃はそういって車に乗り込んだ。
「・・・無理だけはしないでね」
無意味なことと知った上で、そう言って、ハンドルに手を掛けた夫の右腕に触れた。
振り返った晃は、その恵子の手に左手を重ね、恵子の目の中をしばらく見つめると、
「じゃあ、行ってくる」
と言って、静かに車を発進させた。
天気の状況も、夫が明日、登るつもりでいることも分かっていた。そしてそれは、恵子が止め
たところで変わることの無い予定だということも。今回の挑戦を無事に終わらせるためには、今
は気付いていない振りをして、夫の持てる能力と集中力の全てを、目的のためだけに傾けさせる
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ことが最善の方法だと思っていた。
居間のテーブルにギムレットを二つ並べ、今、山で風雪と、そして自分と戦っている夫を思い
ながら、恵子も自分と対話していた。
・・・秋に安曇野移住を、あれほど強く迫らなければ、夫をこんな危険な目に遭わすことは無
かった。しかもあの時、夫に迫りながら、夫が移住に同意した場合には遅かれ早かれ、こうした
場面がやってくるのを、自分は承知の上ではなかったのか・・・それとも、そこまで危険を冒さ
なくても、移住は出来ると自分は思っていたのか・・・そんなはずはない。あの夫が安曇野に住
みながら風景写真を捨て、自然に背を向けて日々を送れるはずはないと知っていた・・・やはり
自分は夢のために、こうなることを承知の上で夫に命を賭けさせた非情な妻なのか・・・。
だがその夢は十八年の年月の間に、自分のための夢というより、むしろ夫や子供達のための夢
に変わっていた。夫に人生を取り戻させてやりたいと願う気持ちと、子供たちを、恵まれた環境
の中で育ててやりたいと願う親心から、捨てられないでいた夢だった。昔、迷いも無く夢に向か
って歩いていた当時の晃は、今の晃とは別人と思えるほど生き生きと輝いていた。その晃を愛し
てしまった自分には、なんとしても夫に自分を取り戻してほしかった。そしてその夫と一緒に生
きて行きたい。その夫と一緒に子供達を大切に育てて行きたい。
そのためには、今夜という夜は、絶対に避けては通れない夜だった。
恵子は自分のグラスを夫のグラスに触れさせてから、液体を口に入れた。
ギムレットの冷たさが、雪山の晃の姿を見せた。