雪嵐 (6)
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入口のファスナーを開け、酔った顔を外に突き出してみたが、何事も起こらない。
強気になった晃は撮影機材を持ってテントを出た。
ジュラルミン製のワカンを靴裏に装着し、千鳥足で尾根の上に行った。
北東を望むと白馬の里の背後に高妻山と妙高山、そして小谷の里の背後には火打山、焼山、雨
飾山といった信越境の山群が、雪におおわれたピークを残照で紅く染め始めていた。
三脚を据え、大型カメラをのせレンズを取り付ける。このカメラは父親の形見の、リンホフ・
マスターテヒニカで、晃が使うようになってからだけでも、かれこれ十八年は使っているが、い
まだに不具合一つ起きたことがない。
アングルを決め、背面のピントグラスに映った逆さの風景のピントを、首から紐で提げたルー
ペを使って慎重に合わせ、露出を測り、絞りとシャッター速度をセットして、シャッターを一度
空撃ちした。フィルムホルダーを挿入し、フィルムの一枚だけ入った黒封筒を装填する。山々の
焼け方がピークを迎えたところで、フィルムの封筒だけを引き出し、レリーズの先のシャッター
ボタンを静かに押す。ジーカシャッ。レンズに付いたシャッターがスローに切れた。
直ぐに次のフィルムを装填し直し、再びシャッターボタンを押す。
残照に染まっていた山群の色があせると間もなく、青味を帯びた雪に覆われた山里の灯りが、
目に付くようになった。
低気圧の接近が気になって振り返り、北アルプスの稜線を端から端までなぞるように目で追っ
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たが、いまだ雪雲らしきものは確認出来ない。
五郎に無事を知らせる携帯を掛けた。
そこから暗くなるのは早かった。
北アルプス上空が紫紺になると満天の星が輝やきだした。
晃はレンズを広角に換えると鹿島槍ヶ岳の方向にカメラを向け、夜空の星も入れてカメラのセ
ッティングを済ませ、シャッターチャンスを待った。
間もなく幾重にも重なる東の山並みの背後から、オレンジ色の大きな満月がぽっこりと昇った。
その月明かりに照らされて鹿島槍ヶ岳が浮き出したが、晃は待ち続けた。
やがて月の位置が高くなってくると、月光線の黄色味が消え、冴えた冷青に変わった。
晃はフィルムを入れ換えては、二十秒のスローシャッターで三枚撮影した。
鹿島槍ヶ岳をおおった幻青の雪が細密なうねりを見せ、そして、その上にきらめく星。
現像上がりは満足のいくものになると確信して、フィルムを仕舞い込んだ。
撮影機材一式をカメラバックに収め、三脚を畳みながら仰いだ鹿島槍ヶ岳の右手に、何か違和
感を覚えた。鹿島槍ヶ岳と五竜岳とを繋ぐ吊り尾根の八峰キレットに、僅かに盛り上がった何か
が見える。
始めは気のせいかとも思えるほどの小さな存在だった。だが何度見直しても、確かに何かがあ
る。そして、その何かが月明かりを受け、少しずつ盛り上がり始めた。切れ長の眼球のように盛
り上がった中心に、ちょうど八峰キレットの中央のコブ山が瞳のようにはまり、巨大な目を形作
った。その瞳が、まるで自分の様子を覗き見ているかのように思え、晃は鳥肌立った。
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「雲か・・・いよいよ来たな・・・」
北アルプス北部の連山をダムにして、その背後へ満杯に押し寄せた雲が、今まさにダムを乗り
越えようとしていた。
それからものの二十分もしない内に、その目が本性を現した。
つい今しがたまで満天の星が輝いていた夜空に向かって、五竜岳や鹿島槍ヶ岳の背後から、ま
るで阿修羅の腕のような、雲の腕が幾筋も現れ、あっという間に天空に広がっていった。雲の腕
はさらに真綿の様な雲を撒き散らしながら次々に手を結び、夜空は瞬く間に雲に覆われ、風花が
舞い始めた。
「長い夜の始まりだ・・・ハァッ」
すっかり様子の変わった空を仰ぎ、気合を入れると、晃は急いでテントに戻った。
いよいよ篭城(ろうじょう)だ。いったんパーカーとオーバーパンツを脱ぎ、羽毛下着とも言
われるダウン入りのインナーパンツとインナージャケットを下に着てから、再びオーバーパンツ
とパーカーを上に着た。これはシュラフの中に入って眠れる保障がないためだ。
足は靴下の上に羽毛入りのテントシューズを履き、さらにその上にオーバーシューズを履いた。
これで靴を履かなくても、外に出て、除雪など多少の作業は可能だ。
若いころには冬山の経験も積んだ。だが、厳冬期の尾根で強力な低気圧に遭遇した経験は一度
も無い。晃の緊張感は刻々と高まっていった。
天井に吊るしていたヘッドランプの灯りが揺れ始めた。
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自分の額のヘッドランプを点灯させ、天井のヘッドランプはパーカーのポケットにしまった。
テントの中を見回して装備のチェックと、万一の場合のイメージトレーニングを入念にした。
嵐と戦うための準備として、やれるだけのことはした。後は嵐が本格的になる前に、睡眠をと
っておくことだけだ。この緊張感の中で、はたして眠れるだろうか・・・そんな心配をしながら、
マミー型のシュラフにもぐり込んだ晃だが、酔いと極度の疲労は、いとも簡単に彼を眠りの中に
連れて行った。