雪嵐 (4)
コルから目的地は近い。後は高低差約三〇メートルの緩斜面を登れば、あの日、二人の雪洞が
あった場所に辿り着く。一歩一歩を踏み出すたびに父母に近づいて行ける気がして力が湧いた。
そして間もなく、見覚えのある斜面を左手に見付けた。
目印の旗こそ立っていないが、周囲の風景と記憶を重ね合わせ、おそらく数メートルと誤差の
無い位置だという確信があった。確信はあったが、いくら辺りを見回してみても、耳を澄ませて
も、期待していた父母の気配は、何も見つけることも、感じ取ることも出来なかった。
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空しさの中で重いザックを下ろし、腕時計を見ると時刻は午後の一時を過ぎかけていた。胃は
すっかり空になっている。これからの作業のためにも何か食べなければと思うが、食べる気力が
出ない。
雪スコで一かきした雪棚に板を置き、テルモス(保温水筒)の湯でインスタントコーヒーを作
って父母に供え、連絡基地と決めていた五郎に、携帯で目的地到着を告げた。
今のところ快晴だが、夕方まで持ってくれるという保証は無い。先ずはテン場の整地から取り
かかった。北を主風向と読み、そちらにテントの後方がくるように縄張りを決める。
強風からテントを守るために、先ずテントの床面積より二回りほど広い範囲の雪面をすっぽり
と掘り下げ、平に整地しなければならない。掘り出した雪は、後で防風ブロックとして使うため
に、雪ノコと雪スコを併用して、一抱えもある大きなブロックに切り出しては、すくい上げ、穴
の周囲に置いていった。
作業に慣れた油断か、雪スコから舞った雪が風にあおられて顔に掛かった。しまったと思った
とたんに目が眩み、強烈なフラッシュバックに襲われて、縦穴の縁に寄りかかるようにひざまず
いた。
雪洞の中に、青白い顔の両親が並んで横たわっている。
二人の頬に触れると、その冷たさが全身を駆け巡り、晃は血を吐くように二人を呼んだ。
必死で何かを摑まえようと見開かれた彼の両眼に、見えているのは過去の風景だった。
しばらく後、よろめきながら縦穴から出た晃は、ザックからジンとライムジュースを混ぜ入れ
たビニールパックを取り出すと、コーナーを指先で切って、空きっ腹に一気に流し込み、ザック
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に寄り掛かって天を仰いだ。
アルコールが体内に広がるのにつれて幻覚の余韻は薄れ、口元に受けた陽光の暖かさが戻って
来た。晃は父母に供えてあった、冷めたコーヒーを一息に飲み干すと、酔いの回った身体で作業
を再開した。
四角く大きな雪の縦穴が完成すると、次に、主な張り綱九本のアンカーを埋める部分を、さら
に各一メートルほど掘り下げ、そこに、張り綱を結んだアンカーをがっちりと埋設した。
テントを広げテントの張り綱と、アンカーの張り綱を九ヶ所、小型のカラビナで結束する。
細くてしなやかな金属製のポールを二本組み立て、テントの上布のガイドに差込み、Xに交差
させてから思い切りたわませて、テント生地を立ち上げた。
そこに冬季用の外張りを重ね張りし、外張りの周囲のスカート部分に、先刻切り出しておいた、
大きな雪ブロックを隙間無く乗せて固定した。
さらに縦穴の周囲三方にも、残りの雪ブロックを全て並べて、要塞の様な防風壁も築いた。
風下になるテント入口側に、雪の吹き溜まりが出来る可能性が考えられたが、稜線に近く、相
当な強風が予測されるため、これで納得の設営だった。張り綱の張り具合を全てバランス良く調
整し直して、これでテントは完成だ。
テントの直ぐ近くに避難用の雪洞を掘っておこうと試みたが、直ぐに気分が悪くなり作業にな
らない。先刻飲んだ後の好イメージがあるので、再び酒のパックを取り出した。中身はジンにグ
レープフルーツジュースを混ぜたブルドッグだ。この酒パックは真空包装機を使って、ビニール
袋に入れた自家製のカクテルをシールしたものだ。マグカップに注ぎ、今度は味わって飲んだ。
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飲み始めると僅かに食欲も出て、塩味のナッツとチーズを食べることが出来た。
立て続けに二袋の酒を飲み干すと、再び雪洞掘りにチャレンジした。かなり酔っているので息
が切れ、思考は乱れて仕方ないが、どうにか作業を続けた。小型ながら自分と装備が収まるだけ
の雪洞を完成させると、晃は雪穴から逃れるように外に出た。
テント内全面にテントマットを敷き詰め、さらに山のベッドともいえるサーマレストマットを、片側に
広げ、シュラフを載せた。他の荷物もテントに全て入れ込み、ナイロン製の巾着袋に飲み水用の
雪を詰めて、テントと外張りの間に置く。
これでやるべき備えは全て終わり、後は夜を待つばかりだ。
ドドドドドドゥーンンンン・・・
今度は尾根の右手、大黒沢の方から雪崩の音が轟いた。
空にはいまだに一片の雲も無く、本当に低気圧が近づいているのか疑いたくなるほどだ。念の
ため携帯で天気情報を確かめると、間違いなく雲の集団はこちらに向かっている。