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雪嵐 (3)

 間もなく小遠見山の肩とも言える「二ノ背髪」に着いた。そこで尾根は左に大きく曲がり小遠見山
山頂へと、ほぼ真っすぐに向かっている。尾根の右手前方には五竜岳と、小遠見山から五竜岳に
延びた遠見尾根の全容が現れた。あの日ここで見た同じ風景を思い出しながら、晃はその尾根上
のピークやコルの様子を、一つ一つ詳細に確認しながらスポーツドリンクを飲んだ。
 一息入れると、再び鼻の下にミントのクリームをたっぷり塗って登り始めた。尾根の右斜面の
傾斜は穏やかだが、左側は落差数百メートルもスパッと切れ落ちた崖が、小遠見山山頂に至るま
でずっと続く。そのエッジには発達した雪庇(せっぴ・・・風下側に出来る大きな雪のひさし)が、
美しくも不気味に張り出していた。うっかり乗って踏み抜いたら一巻の終わりなので、尾根に沿って
やや右下をキープして黙々と登る。


 二ノ背髪から数十分かかって、晃は標高2007メートルの小遠見山山頂に立った。足元から


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西に向かって、ゆったりとS字を描いて延びて行く遠見尾根が、左右のとてつもなく大きな深い
谷を仕切って、五竜岳の右肩ともいえる白岳(しらたけ)に達している。
 尾根上の中遠見山、大遠見山、西遠見山などの小ピークと、さらにその背後の白岳や五竜岳
などが、記念写真に納まる時の人間の様に、意図的に立ち居地をずらしたかと思えるほど巧みに
並び重なって、全ての顔を見せている。
 五竜岳の左には鹿島槍ヶ岳と爺ヶ岳(じいがたけ)、右には唐松岳(からまつだけ)と白馬三山
といった北アルプス北部の名山が目前に肩を並べ、振り返ると、東は遥か彼方の浅間山や四阿山
(あずまやさん)、その少し北に横手山や岩菅山、さらに北に向かって戸隠の西岳や信越境の
高妻山、妙高山、火打山、雨飾山(あまかざりやま)まで見える。
 そして南には松本盆地と、その先に白く小さく南アルプスや中央アルプスの峰までが分かる。
 360度のパノラマの真っ只中に一人で立っている。全天が大地との境目に至るまで、一片の
雲も無い快晴だ。
 本来なら一時ゴーグルを外し、その青と白を全身で存分に味わうところだが、今の彼には、そんな
風景の全てが敵だった。
 これで距離的には半分進んだことになるが、ここから先は、下りや平坦な部分も混じっての、
尾根上のアップダウンなので、労力的には約三分の二を終わったといえるだろう。
 ただ、あの日の記憶が鮮明に浸み込んだ場所だけに、いくらコーヒーガムを噛んでも、ミントの
クリームを塗っても、目まいと軽い幻覚が繰り返すようになり、長時間のストレスと緊張で硬直した
筋肉は、うんざりするほどの疲労を蓄積していた。
 堪らずに下山を迫るもう一人の自分と戦いながら、晃は目指す尾根の先を凝視して、父と母を
思った。


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 「もう直ぐ会いに行く、待っていてくれ」
 と、自分にも言い聞かせるように、胸の中で呟いた。
 次に、遥か東の浅間山に目を転じ、そのずっと先の空の下で待つ妻と子供達を思った。
 「必ずこの病気を治して、安曇野で一緒に暮らそう・・・」
 そして、その手前の安曇野で、自分を案じてくれている叔父や叔母、さらに友の顔を一人一人
思い浮かべ、気持ちを奮い立たせた。
 先ずは中遠見山とのコル(鞍部)に向かっての穏やかな下りだ。再びザックを背負った晃は、
下山させようとする自分を振り切るようにスキーを滑らせた。重い荷を背負っての滑走なので飛
ばすことは出来なかったが、コルは近かった。
 コルからは再び過酷な登りが始まった。悲しいのは登りの方が、下った距離の三倍はある。
しかも一度下りを味わった身体には、背中の大荷物は倍にも重く感じる。
 「くそ、ただでさえ荷物の多い冬の単独行に、大型カメラ機材まで持ってくるとは・・・」
 それを持ち物リストに加えた自分を、頭の中で何度もののしりながら、あえぎあえぎ足を出す。
両足の筋肉に、今にもつりそうな違和感を感じ始めた。長時間、両肩に深く食い込んだショルダ
ーストラップのダメージが、首の筋肉を這い上がり、頭に入って脳を締め付ける。
 「軽荷ですむ夏山なら、こんな高低差七十メートルなど一気に越えて行けるものを・・・」
 無意味な考えは、かえって疲労を増すだけだった。それでも足元だけを見詰めて、数歩登って
は立ち止まり、また数歩登っては立ち止まりを、ひたすら繰り返すうちに、目の前の斜面が無く
なり視界が開けた。


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 中遠見山山頂だ。ここまで来ると正面に聳(そび)える五竜岳と、その左の鹿島槍ヶ岳が、の
しかかるほどに迫る。
 中遠見山山頂を越え、その鼻の先まで下ると、あの日の全ての現場が前方に現れた。あの日、
雪洞のあった所は中遠見山と大遠見山の間のコルから、大遠見山側に少し登った丘状の部分だ。
その直ぐ右手奥に滑落事故の起きた痩せ尾根の急斜面、さらにその奥に撮影機材がデポってあっ
た大遠見山の肩、そして装備の大半がデポられていた大遠見山山頂。
 ここから先を急いだ救助隊福隊長の松永や他の隊員の姿、声が鮮やかに蘇り、鳥肌立った。
 ドドドドドドゥーンンンン・・・
 尾根の左手前方のシラタケ沢の方から雪崩の音が轟いた。
 晃は大遠見山とのコルに向かって、慎重に滑り降りて行った。

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