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雪嵐 (2)

 白馬五竜スキー場は快晴の朝を迎えていた。
 ゴンドラの麓駅「とおみ駅」前には、朝の斜光線に息を染めた気の早いスキー客達が、列をつ
くって運行開始を待ちわびている。
 天気予報では日中いっぱい晴れとなっているものの、夜には小型ながら強力な低気圧の通過を
告げているため、ゴンドラ待ちの列に並んでいるのはスキーヤーとスノーボーダーばかりで、登
山支度の者は三人以外にいるはずもない。
 やがて運行開始のベルが鳴った。
 さほど待たずに順番が来たが、係員が何か聞きたげな素振りを見せたため、三人は冷や汗をか
きつつ、早々に乗り込んだ。
 「どうだ、大丈夫か?」 辰彦が聞いた。
 「ありがとう、大丈夫だ・・・」
 

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 濃い黒のゴーグルをかけ、床に目を置きながら答えたが、顔色はすっかり青ざめている。晃は
ヒマラヤンキャップの垂らしを降ろし、両頬を隠すようにして、あご下で留めた。しきりにコー
ヒーガムを噛んでいるのは、気を紛らすのと雪の香りに鈍になるためだ。
 アルプス平駅に降り立つと、昔の記憶を呼び覚ます風景が、そこかしこに点在していた。
 三人は急いでテラスの階段を降りゲレンデに出た。
 山スキーを履き、アルプス第一ペアリフトに乗って、さらに上に向かった。
 白馬五竜スキー場の最上部でリフトを降り、一漕(ひと(こ)ぎ登って地蔵の頭に辿り着く。
 ここは上から降りてきた尾根の末端が鞍状に反り返って出っ張った、岬の様な地形になってい
て、先端の上部にはケルンとともに地蔵尊などの石仏が幾体も、唐松岳((からまつだけ)や白馬
三山(はくばさんざん)をバックにして祀られている。この石仏は過去にこの山で遭難した、大勢の
アルピニストを弔うためのものだ。
 晃はザックを降ろし、スキーを外して、一体一体に手を合わせて回った。
 「天候が安定している内に高度を稼いでおいた方がいいんじゃないか・・・なんなら小遠見山
くらいまで着いて行ってもいいんだぞ、なあ五郎」
 「ほんとだな、俺もせっかくここまで来たんだし、この快晴じゃ降りてしまうのがもったいな
いしな・・・小遠見なんて言わずに大遠見まで行って、ついでにテン張るのも雪洞も三人でやっ
ちまおうや。荷物もこのまま分割して揚げれば楽だし、テン場造るのだってあっという間に出来
ちゃうぞ」
 「・・・・・・・」                                                      
 晃は黙って雪上にシートを広げ、その上に置いた自分のザックを開いて二人を見上げた。


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 「・・・分かったよ。おい辰彦、諦めろ、荷造り手伝ってやるぞ」
 二人も自分のザックを開き、分割して背負ってきた荷物を取り出すと、三人がかりで晃のザッ
クに詰めた。
 「これでよしと・・・かさ張るもんだねえ。十八年振りの冬山に大型カメラ一式持って行くっ
てのは、ちょっと過酷な気もするが・・・」 
 と言って五郎が立ち上がった。
 晃が立ち上がると五郎が背後から羽交い絞めに抱きついて、辰彦を呼んだ。
 辰彦は晃の正面から力いっぱい抱きついた。
 やがて、ぺしゃんこのザックを背負った二人が滑り降りて行った。


 本格的な登りに備えて薄着になり、装備を鮨詰めにしたザックを改めて背負って立ち上がると、
ザックの頂部は頭より上になった。数十キロの加重が両肩に音を立てて食い込んだが、この三ヶ
月間、一日も欠かさずトレーニングを積んできた晃にとっては、背負えない重量ではなかった。
 全ルートの中で特に体力を消耗させられるのが、前半の二ノ背髪を経て小遠見山山頂までの、
標高差三百六十メートルの登りだ。
 スモークの濃いゴーグルを選んだのと、鼻の奥に詰めた脱脂綿のお陰で、今のところフラッシ
ュバックは襲ってこない。
 「ハァッ」
 晃は気合を入れるとゴーグル越しで、すっかり灰色に見える深雪へと分け入ったが、直ぐに急


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斜面が始まり、なかなか高度を稼がしてくれない。背中の荷物が日帰り用の軽いザックなら、ヒ
ールリフター付の山スキーであれば、かなりな斜面でも直登して行けるのだが、フル装備に加え
て大型カメラ機材一式まで背負っている身では、何回にも分けてジグザグを切って行かなくては
ならない。
 のろのろと一時間ほど登ると、体中に溜まった熱気と口呼吸が辛く、思い切って鼻をかんで脱
脂綿を出してしまいたい衝動に駆られるようになった。その誘惑に度々立ち止まり、迷い、そし
て振り切って登った。しかし、それを繰り返すうちに、やがて熱中症の様な状態になり、意識が
揺らぐのを覚えて思わずしゃがみ込んだ。フラッシュバックは恐怖だが、このままで先に進むの
は不可能だ。しばらく躊躇(ちゅうちょ)していたが、他に選択肢は見付からなかった。晃は覚悟
を決め、思い切って鼻をかんだ。
 鼻腔を心地よい涼風が通り過ぎるのを感じた直後、雪の香りがついてきた。
 同時に目が眩みフラッシュバックが襲った。すべての皮膚を剥ぎ取られたような悪寒に包まれ、
吐いた。視界が急速に流れ、斜面にもたれ掛かるように倒れた。全身が硬直して激しく震え、彼
は自分を失った。晃は、あの遠い日の雪洞の中にいた。
 「おふくろーッ・・・親父ーッ・・・起きてくれーっ・・・」
 声にならない声で叫んでいた。
あの日のように何度も何度も、声にならない声で叫び続けた。

 「おふくろーッ」
 どれくらい経ったのか、自分の叫び声で我に返った。震える手でポケットからミントの香りの


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強い鼻炎用クリームを取り出すと、垂れ下がった鼻水を拭い、鼻の下に塗った。ふらつきながら
二本のストックに助けられて立ち上がると、ふと、家を出る間際の光を思い出した。
 「春になったら、岩魚釣りに行くんだよねーだ」
 「行くともさ・・・そっちに向かって歩いて行くから待ってろよーっ」
 晃は心の中で光に呼びかけながら、再び重い足を上げた。

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