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雪嵐 (1)

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 「明日の入山だってっ・・・お前、本当に天気図見たのかっ。いくら小型だからって、次の低
気圧は強力なんだよ。よその山が晴れていたって吹雪くって言われる北アルプス北部だぜ、それ
もこんな厳冬期に、正気の沙汰とは思えないよ。山に入ってる連中が逃げ出して来る時に、逆に
入山するなんて自殺行為だぞ」  眉を吊り上げて辰彦が言った。
 「その通りだよ。日帰りならともかく、明日、山でテン張るなんて本当に自殺行為だぞ。消防
士で山岳救助隊員の俺に自殺幇助しろって言うのかい・・・悪いことは言わないから、あさって
の入山にしろよ。なら、いくらでもサポートしてやるから」
 年は明けて二月も始まったばかりの夜、五郎の家の客間で辰彦と五郎が晃に詰め寄った。
 「前に頼んだ時にも言ったじゃないか・・・中途半端なやり方で生殺しにだけはなりたくない
って。もしこれで直らなかったら、写真と山を捨てても後悔しないって、納得できるだけの思い
切ったインパクトを自分に与えてみたいんだ。そのために年明け以来待ち続け、狙いに狙って選
んだチャンスなんだよ。明日の夜にやって来る低気圧が、通り過ぎるのに二日も三日も掛かるよ
うなやつだったら、無謀な計画と認めるよ。だけどあさっての朝か、いくら遅くても昼までには
回復して、移動性の高気圧に覆われるんだし、装備もそれなりに対応出来るものを、入念に準備
してきたつもりだ」
 「言いたくなかったが、その低気圧のために、あのベテランの親父さんとお袋さんが死んだん
だぞっ・・・お前は両親が命と引き換えに残した教訓を、無駄にするのかっ」


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 辰彦が強い口調で言った。
 「・・・・・」
 「辰彦も俺も、あんな思いをするのだけは、もう二度と御免なんだよ・・・もし、万一のこと
になったら、恵子さや西オジたちに、なんて言って詫びろって言うんだよ」
 「・・・・・」
 長い沈黙が続いたが、晃は説得を諦めなかった。
 「・・・俺が二人と逆の立場だったら、きっと俺も百パーセント反対すると思う・・・ただ、
俺はもう東京での根っ子を全部切り落としてしまったし、このまま病気を引きずって行くってこ
とは、この信州で年の半分は山に入れない風景写真家が誕生するわけで、これは誰が考えても成
り立たない。だけど俺の身体や血液は、ここの自然と関わって生きていたい、自然に関わっての
表現者でいたいという思いで充満しているし、このままだったら毎日が生き地獄になってしまう
んだ。同じ地獄なら一時の地獄と戦って自分の可能性に賭けてやる・・・それはこっちへ移るっ
て決めた去年の秋に覚悟したことだし、恵子も俺が移住を決断するということは、次に俺が何を
するか、うすうすは気付いているはずだよ」
 「今回の低気圧は小型だが台風並みに強力だ。ただでさえ冬は荒れる北部の北アルプスが、ど
んな環境になるか・・・雪も恐ろしいが風の方がもっと恐ろしい。突風に見舞われたら、テント
なんかアンカーごと、むしっていかれちゃうぞ。なあ五郎」
 「そうだよ。このまま生きてりゃ地獄っていうけど、生きていれば新たな可能性だって出てく
るかも知れない。新しい治療法が見つかるとか・・・だけど死んじまったらそれっきりだ。それ


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にお前が死んだら、残された人の生き地獄が始まるんじゃないのか」
 「二人の話を聞いてると、はなから遭難するって決め付けているみたいだけど、今の装備は改
良されているし、テントを設営するにしても思い切り堅固に設営するよ。いざという時のために
雪洞も掘っておくから大丈夫だ。あの時の親父やお袋だって、装備さえあったら助かっていたは
ずだし、今の装備は当時より格段に改良されているじゃないか。それに失敗したくないから、命
が惜しいからこそ、決行する腹を少しでも早く括って、あらゆる準備を万全にしておきたいんだ。
この挑戦は俺の人生で絶対に避けられない、突き破らなきゃならない節なんだよ。破れずに生き
腐れるくらいなら、俺は命を賭けてでも突き抜けてやる。二人がどうしても反対するなら、明日
は俺一人ででも行くよ。雪から逃げ回って生きるなんて、もうたくさんだ」
 「だめだ、この石頭は俺達がなんと言っても聞く耳を持っていないや・・・どうする五郎」
 「・・・いったいどうしたらいいんだい」
 「二人とも悩むなって。心の怪我っていうのは、経験者にしか理解出来ないんだから・・・た
だ今回、大遠見山にあるものは、俺にとって自分の心臓か両腕くらい大切なものなんだ。いや、
俺自身って言った方がいいな。それを取ってくるためなら命も賭ける。これはもうとっくに決め
ていることだから」
 「ハー・・・負けたよ・・・明日の夜は、長い夜になりそうだ」
 五郎がぽそりと言った。
 「で、何時の出発だ?」 辰彦が聞いた。
 「ここを六時だ」


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 「分かった・・・俺はお前と友達だったことを、つくづく後悔しているよ。悪夢を見ている様
だ。準備するから、もう帰るぞ。五郎、明日は俺の車と晃の車で行けばいいからな。それから晃、
携帯の電池の予備忘れるなよ」
言い残すと辰彦は帰った。

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