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水祭り (5)

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 翌朝、晃とジーノの乗った車は、途中で五郎を拾い上高地へ向かった。
 「晃、この時間なら三十分くらい寄り道してもいいよなあ?」 五郎が聞いた。
 「いいけど、どこへ寄って行くんだい?」
 「ゆうべの話しの水物語だけどな、この先で渡る拾ケ堰(じっかせぎ)の、山に向かって流れ
て行くのなんか見ておいたら、二人のインスピレーションの足しになるんじゃないか?」
 「そうか、もう直ぐだな・・・分かった、ちょっと回っていこうか」
 安曇広域農道を南に向けて車を走らせていた晃は、間もなく左折すると、しばらく走って、広
大な水田地帯のど真ん中を流れる、幅数メートルの用水路の堤防上に車を止めた。
 五郎はジーノを、その用水路に掛かった橋の上に連れて行くと、上流を指差して聞いた。
 「ジーノさん、この川どこか不自然だと思わないかい?」
 「・・・??あれ、水が逆に流れてる・・・え、この川は山に向かって逆流していますねえ?」
 「でしょ・・・これが安曇野水物語の奥深さだよ。安曇の水の民は、水を低きから高きに流せ
る民族なんだよ」
 五郎が真面目な顔で言った。確かに水は正面にそびえる常念岳に向かって流れている。
 「こんなの初めて見ましたねえ。やっぱり綿津海神の子孫なんですねえ安曇族は・・・」
 ジーノが感心していると、横で晃が、
 「消防ポンプじゃあるまいし、そんなことが出来るはずないでしょ」 と言った。


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 「なーんだ、からかったんですかあ・・・まったくこのサーノさんは・・・でも、なぜこの水
は昇って行けるんですかあ?」
 待ってましたとばかりに、五郎の身振り手振りの解説が始まった。
 「安曇野は複合扇状地で、扇状地が横並びに幾つも重なりあっているもんだから、五百七十メ
ートルの等高線上をたどると、こういう線をえがくんだよ。だから、ここから見ると常念岳の方
に向かって昇るように見えるけど、ずっと先の方で右に曲がっているんだ。この堰は江戸時代に
造られた堰で拾ヶ堰っていうんだけど、昔の正式名称を拾ヶ村(じっかそん)組合堰っていって
ね、十の村の水田に水を届けるために造られた堰なんだよ。少しでも多くの水田に水を届けたい
から、全長十五キロメートルもあるのに、取水口から放水口までの落差は数メートルしかないん
だ。流れやすくするために、落差を一メートル大きくしただけで、とんでもない数の水田が水を
諦めることになるからね」
 「見えるようですねえ・・・江戸時代のお百姓達が、流れるか流れないか、ギリギリのところ
を粘り強く延ばして行った様子が・・・」
 「今でこそ安曇野は信州有数の米どころになってるけど、昔からこうだったわけじゃないんだ。
本来扇状地は、雨や雪解け水が地下にしみ込みやすい構造だから、扇端と呼ばれる最下部では水
が湧き出したりするけど、扇央と呼ばれる最も面積の広い斜面の途中では水を得にくいんだ。大
川には水が豊富に流れていても、耕したいところに水が無い。それを志のある昔の農民が調べて
研究して、藩と掛け合って許可や協力を取り付けて、命がけで造ったのがこうした横堰さ。流れ
やすくしたら田畑が減る。流れにくくて失敗したら厳罰。こういう命がけの水の大動脈が安曇野


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には何本もあるんだ。中でもこの拾ヶ堰は一番多くの田畑を潤している堰だよ。この堰より低い
五百四十五メートルの等高線に沿っている堰で、矢原堰(やばらせぎ)ってのがあるけど、それ
なんか全長約八キロメートルの取水口から放水口までの落差は、たった一メートルしかないんだ
ぜ。傾斜率八千分の一。その堰なんか絶対不可能だっていわれてて、松本藩から、工事の許可願
いを何遍も却下された臼井弥三郎って庄屋が、失敗した時の自分の磔刑台を、工事の一番難所の
所に立てて、許可を取り付けたっていう実話もあるんだよ・・・せっかく『お水返し』に行くんなら、
その辺りも触っておいてからの方が味が出ると思ってね」
 「サーノさん、ありがとうございまーした。お水がえしのお祭りの前に見せていただいて、
感謝でーす。お水返しがますます楽しみになりまーした。サーノさんは見かけによらず博識
なんですねえ」
 「・・・・・」
 車は飛び交うトンボのアキアカネを分けて、広い水田地帯の中に再び走り出した。
 「ジーノ、五郎はこう見えても歴史オタクで詳しいから、何か知りたいことがあったら教えて
もらうといいよ・・・ただし、話が始まったら当分終わらないからさ、欲しいとこだけ聞いとけ
ばいいからね」
 「私、日本の歴史にも興味ありますです。サーノさん、色々教えてください。戦国時代の武将
のことなんか、好きですねえ」
 「じゃあ、武田信玄って知ってるかい?」
 「武田信玄、もちろん知ってまーす。風林火山ですねえ?」


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 「そうそう、その風林火山の大将に、昔、松本盆地は征服されていたんだよ・・・ちょっとオ
タクっぽい話しだけど、当時松本で起きた集落同士の水利権争いに、信玄が裁断を下したなんて
いう古文書も残っているんだぜ」
 「ほんとですかあ?」
 「ほんともほんと・・・・・」
 この後、沢渡(さわんど)まで、晃が口を挟む余地は、ほとんど無かった。

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