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水祭り (3)

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 晃が今回帰郷した目的は、文吉夫婦や仲間との打ち合わせもあったが、『お水返し』の祭り
にタイミングを合わせ、この祭りに来たがっていたジーノとともに、楽しむためでもあった。
 ガラリと戸が開いて消防士の佐野五郎が入ってきた。
 「いやーっ、ごめんごめん遅くなっちゃって・・・署長に怒られていたもんだからさあ」
 と五郎が頭をかいた。
 晃はジーノと五郎を紹介した。
 ジーノは握手の手をいつまでも握ったまま、
 「おー、サーノさんですか、サーノさん、いいですねえ、よろしくお願いしますです」
 と言った。
 「サーノじゃなくて佐野ですよ佐野」
 と五郎が言ったが、
 「はい、サーノさんですね、サーノさん」
 ジーノは、にやにやしたまま同じことを繰り返した。
 一同は五郎も加えて、改めて記念写真を撮った。
 「さあて、馬鹿署長のことは忘れて飲むか」 生ビールのジョッキを掴んだ五郎が言った。


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 「五郎っ、今日は何を怒られたんだ?」 と文吉が聞いた。
 「何を怒られたって、大したことじゃないんだけどね・・・昨日の昼飯ん時に後輩たちとバツ
ゲームやったんだけど、俺が負けたもんだから三十分間のロッカー入りさ。鍵掛けられてほった
らかし・・・そのうちに火災発生で出動かかって、皆んな俺のこと忘れて行っちまった・・・と
ころが消火終わって、点呼取ったら佐野がいない。さあ大変だ。火事に巻き込まれたんじゃない
かって大騒ぎになって、あわてて探してるうちに馬鹿共が、ロッカーに入れてたのを思い出した
っていう話し。なんで俺が怒られなきゃいけないんだ、って思いません。俺が忘れたんじゃない
のに」
 言い終わった五郎は、美味そうに咽を鳴らしてビールをあおった。
 文吉は口に入れたビールのやり場に困って、目を白黒させている。
 一同の大きな笑い声が店の外まであふれた。
 他の客も入り始め、店内が活気付いてきた。
 鮨辰はカウンターとつけ場の間に、通常のすし屋に見られるようなネタケースを置いていない
ため、客から職人の手元が良く見える。
 辰彦はネタを替えるたびに包丁や指先の使い方を変えて、まるでマジックのように刺身に切る。
 ジーノは、焼いたクロカワタケの辛味大根おろし和えのほろ苦さを楽しみながら、辰彦の見事
な包丁さばきに見とれていた。
 辰彦がリズミカルに切った端から辰三が静かに穏やかに、けん大根と敷づまを置いた黒の漆器
皿に盛り込み、つまとワサビを添え、紅いモミジの葉を散らした。


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 「風景ですねえ・・・このカウンターは縁側ですねえ」 ジーノがぽつりと言った。
 その美しい刺身を燗酒で食べ終える辺りで、いよいよジーノの採ったカサヒラキが焼きあがっ
た。傘の直径が十五センチほどもあるので傘と軸に分けて焼かれていた。その焼き立てのまだ熱
いのを辰三が手で裂き、生醤油をチリッとかけてスダチを添え銘々に渡した。
 「温かいうちにスダチを搾りかけて食べてみな」 晃がジーノに教えた。
 ジーノは自分の採ったマツタケを口に運んだ。シャキシャキとした心地好い歯応えと、意外な
ほどの歯切れの良さ。ポン酢を分けて見え隠れする微妙な甘味。そして口腔から鼻腔にこもった、
焼きマツタケならではの芳ばしい香り。
 その香りがジーノの脳裏に、今朝の山の記憶を連れて来た。
 尾根の随所に突き出す風化した花崗岩の大岩と、その間を埋めた松の深緑とが、まるで日本庭
園を思わせる様な風景を、山上に造っていた。早朝の木漏れ日を横から身体に受けながら、松の
落ち葉に覆われた斜面を仰ぎ見るようにして、枯れ松葉の微妙な盛り上がりを探す。辺りは秋の
香りに満ちている。
 尾根沿いの南斜面で、盆栽を大きくした様な松の根元を見上げていた文吉が呼んだ。近寄った
ジーノが、文吉が杖の先で指している斜面を良く見ると、松葉のジュウタンが数ヶ所小さく盛り
上がっている。言われるまま軽く押えると、松葉の下に何かコリッとしたものがある。松葉をそ
っと除けると数本のマツタケが淡い褐色の坊主頭を見せた。振り返るとニコリと微笑んだ文吉が、
 「これがマツタケだよ」 と言った。
 文吉は一本のマツタケの直前の斜面に、先端を平たくした杖を立てるとブスリッと地中に差し


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込んだ。柄をテコの様に下げると、杖先に下から押し上げられたマツタケが、ポクリと胴の中程
まで持ち上がった。その胴を掴んだ文吉は、前後左右に慎重に揺すってからスポリと抜くと、鼻
に近づけ、
 「抜いたばかりの香りは何んとも言えないねえ」
 と言うとマツタケを腰の魚篭に入れた。そして文吉は穴を指先で埋め、松葉を丁寧に戻し、軽
く押えて元通りにした。
 残りの数本はジーノが教わりながら抜いたが、地中に隠れた軸はどれも想像以上に長く、それ
だけにスポリと抜けた時の手応えには独特の快感があった。全て抜き取り、文吉を真似て跡を整
えると、ジーノも抜き立ての香りを確かめてみた。自分で採る者にしか味わえない、マツタケ山
の風景を凝縮したような香りが鼻腔に入った。瞬間ジーノの体内で、あの岩魚釣りの時と同様の、
切ることの出来ない新たなスイッチが、また一つバチンと音を立てて入った。
 猟犬のようになったジーノは、何としても自分で見付けてやろうと這い回ったが、そうやすや
すとマツタケも見付かってくれない。おまけに自分の見落としたのを、後ろから来た文吉が採る
といったありさまだ。一息入れようと尾根の岩棚に腰掛けて下界を眺めると、安曇平を秋特有の
雲海がおおっている。しばらく見とれていたが、ふと視線を移した尾根裏の北斜面の下方、二つ
並んだ大岩の間のザレに、キノコの傘らしき物が二つ並んでいる。
 「あれ、キノコかな?」
 と言ったジーノは岩棚を飛び降り、もしやマツタケかとザレ場を滑り降りて行った。そのキノ
コの下に回って改めて見上げてみると、大地を力強く突き抜けた太い軸が二本ニョキッと立ち上


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がり、その上に直径十五センチ程の傘を反り返らんばかりに開いている。つい先刻見覚えのある
本物のマツタケと色こそ似ているものの、一葉の落ち葉もまとわず堂々と姿をさらし、傘裏のひ
だまで見せた大キノコは、どう見てもマツタケとは思えない代物だった。
 がっかりして、毒キノコめ、こうしてやるっとばかり杖を振り下ろそうとしたが、そのキノコ
の風格がジーノの手を止めた。すると先刻記憶したばかりの香りが僅かに鼻をなぜ、心臓がドキ
リッと強く打った。ひざまずき斜面に両手を突いてキノコの傘に鼻を近づけると、その強過ぎる
程の香りは紛れも無いマツタケのものだった。

 「ジーノさん」 カウンターの左隣りから文吉が声を掛けた。
 「・・・え、あっ、はい。何ですかオジサン」
 「ジーノさん、このマツタケ抜く前に確か杖を振り上げたように見えたけど、俺の目の錯覚だ
ったかなあ」
 ささやくように言うと文吉は、横目を掛けたまま杯を口に運んだ。
 「オ、オジサン・・・」
 唇に人差し指を当てて見せたジーノが恐る恐る右手を振り向くと、目の前に晃の嬉しそうな顔
があった。
 「皆んな聞いてくれ。この見事なマツタケの物語には、まだ続きがあるんだよ・・・」
 晃が目一杯脚色して続きを語った。
 再び一同の笑い声が店の外まであふれた。


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 握りまで一通り食べ、戻り鰹(がつお)の握りのアンコールと、アミタケの味噌汁まで平らげたところ
で、晃が辰彦と五郎に目配せをした。
 「オヤジ、若い衆だけで、ちょっくら悪さの打ち合わせをしてくるから、真一と二人でしばら
くここ頼むな。すぐ戻るから」  と、辰三に一時つけ場を頼んだ辰彦は、
 「小座敷に上がってくれるか」  と、晃と五郎を促がした。
 「ジーノも一緒に来てくれよ」 晃が誘った。

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