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天然家族 (2)

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 「泉さんの心の病気は、治すこと出来ないんですかあ?」
 「うん、今時のPTSDの治療法って、驚くほど色んな方法が開発されているからね。あれも
試し、これも試しして、その度に今度こそはって期待してきたけど、ぜんぜん直らなかった。最
近受けたEMDRっていう催眠療法なんか最悪さ。治癒率70パーセントって聞いたけど、なん
と、俺の場合は逆効果で、かえって悪くなってしまったよ」
 「発作は、どんな時に起こるんですかあ?」
 「雪を見たり、雪の匂いを嗅いだりした時に突然やってくる」
 「やっぱりご両親が遭難した時の体験が原因なんですね」
 「・・・発作が起こった時に自分が居るのは、いつも雪洞の中だよ・・・」
 そう言った晃の顔から血の気が引いた。晃は慌てたようにコーヒーを飲み干して言った。
 「・・・俺みたいに長期間治らないでいた患者が、再び同じ様な体験をすることで、治ったと
いう症例もあるんだが、これも、かえって悪化するケースがあるらしいし・・・だけど、いよい
よ、それを試すしか道は無いって思い始めているよ」
 「それって、雪山に登るってことですよねえ?・・・」
 「・・・試すなら、嵐の雪山を体験するのが最も効果的だろうな」
 「危険過ぎますねえ、いくら治るかも知れないといっても・・・」
 「俺の中学生時代からの目標は、この北アルプスと、その山麓の魅力を写真で表現する写真家


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になることなんだ。それから逃げたら、田舎に住んでいても養殖池の場所を変えただけ・・・い
や、もっと辛いものになっちゃう。だって、自然の川の横で養殖池に入っている様なものだから。
この土地で雪を避けて風景写真家が勤まるはずは無いからね」
 「泉さんに天然への道をけしかけるということは、命を賭けろというのと同じことになってし
まうんですね、責任重大ですねえ」
 「ジーノさん、そんなこと心配しないでいいよ。一番大切なものに命を賭ける覚悟は昔から出
来ているから。ただ、困っているのは病気からくる発作で、何も判断出来なくなってしまう、あ
の状態が恐怖なんだよ」
 「いよいよ試すって・・・そんなに結論を急がなくてもいいんじゃないですかあ?もしかした
ら違う治療法が見つかるかも知れないし、自然に治ることだって無いとは言えないんでしょう。
まだ二年か三年様子見たらどうなんですかあ?」
 「そう思っているうちに、あっという間に十七年の月日が流れていたんだよ。いよいよ家族も
微妙な時期を向かえて、子供たちに親らしいことをしてあげるなら、今からの数年間が一番大事
な時期だと思えるし、妻の人生にとっても、今からの数年間が運命を左右しかねない状況で、後
は俺の覚悟次第というわけさ」
 「確かに人生には、今すぐ右か左か選ばなければならない局面は、何度かありますよね・・・
でも無理矢理危険を冒すのは、一つしかない命の無駄遣いですねえ」
 「うん、山や川の恐ろしさは骨身に滲みて味わったしね。でも、魅力も骨身に滲みている。そ
れに、俺がこっちに住むようになった方が、ジーノさんにとっては都合がいいんじゃないかい・・・
また岩魚釣りに来れるから」


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 「泉さーん、泉さんも、感が良いって言われること多くないですかあ?」
 「ジーノさん。寝酒、飲み直そうか?」
 「そうですね、飲み直しましょう」
 その夜、その深い渓谷の底にはいつまでも、星の様に小さな炎がまたたき、糸の様な一条の煙
が立ち昇っていた。

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