雪の彼方へ (10)
風雪は午前五時頃から急速に衰え始めた。
午前五時半、アルプス平駅のテラスで暗い空を睨んでいた救助隊長の遠山が、
「よし、救助開始だ」 と、並んで立っていた副隊長の松永に声を掛けた。
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松永はレストハウス内に戻ると、待機していた十数人の隊員達に向かって、
「救助開始っ」 と、気合いの入った声を発し、自分のザックを掴んだ。
隊員達は一斉に立ち上がると、ザックを背負ってテラスの階段を降りて行った。
晃と五郎と辰彦達も後に続いたが、山スキーが操れない文吉は後に残った。
ヘッドライトと黄色い回転灯を眩しく点けた三台の雪上車は、モウモウと雪煙を舞い上げてゲ
レンデを登って行った。ゲレンデの最上部まで登り切った雪上車は、さらに上部の小ピーク、地
蔵の頭を左に巻いて、その先のコルまで隊員達を運んだ。
バラバラと雪上車を飛び降りた隊員たちは、まだ暗い雪原にヘッドランプの光を交差させなが
ら山スキーを履いた。体力自慢の若手の隊員三人だけはスノーシューを履き、山スキーはザック
を両サイドから挟むようにして括りつけ、背負った。
雪はまだ舞っていたが、上空には鮮やかな星の光も見え隠れするようになった。
「前半は急登(きゅうとう)ばかりだから、休憩を二ノ背髪(にのせがみ)と小遠見山で取る。
小遠見山で行程の半分だが、その後のアップダウンはしれているからな。前半きついが気合入れ
て行けよっ。じゃあっ、行くぞーっ」
松永の号令で二十人ほどの一団が、距離約三キロ、高低差約三百五十メートルの雪の世界に一
列縦隊で挑み始めた。
深い新雪が、行く手を阻もうとしたが、北アルプス北部救助隊の精鋭達の敵ではなかった。新
雪をスノーシューで踏み、トレイル(踏み跡)をつける役割の三人は、松永の
「トップ交代―っ」
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の号令で次々に先頭を交代して消耗を防ぎながら、ハイペースでトレイルを延ばし、一隊はそ
の後を山スキーで難無く登って行った。
晃は一歩毎に祈った。一歩毎に両親の顔を思い浮かべながら、自分を笑って迎えてくれるイメ
ージを、出来る限り鮮明に思いながら登った。
モルゲンロートが北アルプスの稜線を染める中、一隊は二ノ背髪と呼ばれる、小遠見山の肩に
辿り着いた。嵐は夢のごとく去り、朱に染まった五竜岳に満月が触れかけている。
二ノ背髪からは、小遠見山から五竜岳へと続く遠見尾根の全容を、横から仰ぎ見ることが出来、
目指す中遠見山から大遠見山にかけての稜線も見えている。
二ノ背髪から先は傾斜が緩くなるので、スノーシューの隊員も山スキーに履き替えた。
休憩を取り、隊員達は水を飲んだ。晃も咽は焼け付くほどに渇いていたが、不安で爆発しそう
な晃の心や身体に、水を受け入れられるような隙間は無かった。
気付いた辰彦が、
「晃、無理にでも飲んでおけよ。口を濡らすだけでもいいから」
と言って自分の水を差し出した。
「すまん・・・」
晃は硬い水を飲み込んだ。
一行が標高二〇〇七メートルの小遠見山山頂に辿り着いた時には、時刻は間もなく午前七時半
になろうとしていた。
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小遠見山山頂からの三六〇度の眺望は、人間界の遭難騒ぎをよそに、別世界の美しさで一行を
えた。北アルプス北部の純白の名峰群が、険しくも美しい山容を横に連ね、蒼い空から飛び出
すように浮き立っている。
その中央の五竜岳に向かい、足元から延びた遠見尾根がアップダウンを繰り返しながら、数キロ
に渡るS字の稜線を横たえ、とてつもなく大きくて深い左右の谷を仕切っている。
その尾根上には三つのピークがあり、一番手前のピークが中遠見山で、二人のビバークしている
のは、その中遠見山と次の大遠見山の中間地点だ。あいにく目的地は、中遠見山の陰に隠れ、
目視することは出来ない。
本部と幾度目かの無線交信をしていた松永が、
「皆んな聞いてくれ。県警ヘリが来てくれるのは、まだ一時間か二時間先になりそうだ。八方
尾根で事故ったボーダーを先に搬送してから、こっちに来ることになった。こんなに視界が良い
のに悔しいが、ヘリに先行してもらうのは諦めだ」 と言った。
「それじゃ休憩なんか取らず、直ぐ出発しましょうっ。しばらくは下りだから大丈夫ですよっ」
若い隊員が言った。
「今回は背中の荷も軽いし、皆んな大して疲労していませんよっ。早く行きましょうっ」
「そうだっ、早く行きましょうっ、松永さんっ」
他の隊員も口々に言った。
「よし、水を飲んだら直ぐに出発だ。後はあの中遠見山さえ越えれば、その先はほとんど下り
だけで現場まで行けるからな。一秒でも早く救助しよう」
一隊は中遠見山とのコルに向かい、踏むのをためらうほど美しいバージンスノーを蹴散らして、
次々に滑り降りて行った。